ミステリー界に、変人はたくさんいる。
元祖はシャーロック・ホームズ。
ホームズは麻薬をなかなかやめれない。親友にどんなに窘められても隠れてやっちゃう、、。
エキセントリックな性格と不摂生な生活、社会不適応者と言っていい。
ワトソン君やハドソンさんみたいな理解者がいることが奇跡みたいなものだ。
コナン・ドイルは、天才的な探偵は人格者ではないというプロトタイプを作った。
ポワロは、自分が世界一の探偵であると自負している。自惚れが半端ない。
みんなが自分のことを知っていると信じているが、時たま若者と話すと誰もポワロなんて知らない。
彼はショックを受け、この世の終わりとばかりに引退を公言する。
しおしおとうなだれる姿は哀れを誘う。ラテン系の人たちの絶望の表現の仕方は心に迫り感動的だ。
抑制を美徳とする日本人やイギリス人にとって、芸術的ですらある(笑)。
しかし、何かのきっかけで事件解決に関与して、ポワロの実力が発揮されると立ち直りがめちゃ早い。
普段偉そうにしている人が弱みを見せる→立ち直る→元気を取り戻してまた胸を張る。
このお決まりのコースは、ポワロが外国人だからいささか大袈裟だが、同時に人間臭さも感じる。
人間臭さというのは、人が逆境にある時に最も現われるものだ。
杉下右京は、”人材の墓場”である特命係で最初から逆境である。
彼はまったく弱みを見せない。心が強いのかと思えば、どうもほとんど意に介していない。関心外らしい。
相棒の刑事はある時点で彼に共感し、彼の思考回路を理解しようとし始める。
それは強制でもなければ規制もできない、非常に自発的かつ一方的な共感だ。
相棒の刑事の心の葛藤=”人間らしさ”と、共有されないままふらふらと浮遊する”共感”が『相棒』の核にあって、その意味で初代・亀山くん”が相棒の原形であり、ドラマの象徴であると思われる。
右京さんには人間臭さがほとんど感じられない分、変人度はもしかして最強かもしれない。
いつか、HALみたいに大暴走を始めるのかも、、。
金田一耕助や湯川学(ガリレオ)は、一人黙々と推理を巡らす。
トリック重視・プロット重視で、主人公は事件を解説する、言わば進行役みたいなもので、“天才は変人である”という定型を「ちょっと拝借」感がある。
福山雅治さんじゃなかったら、あんなにワクワクして見なかったかも…(笑)。
でも、トリックは面白かった。
天才の異常性を強調するようなキャラクター作りは、既に受け手に見透かされ、古さや安易さを感じてしまう。
ビジュアルの斬新さやキャストの人気スターの話題性がないと、今のミステリー界で人気をとるのは難しいかもしれない。
クリスティーが活躍した時代よりキャラクター作りの難易度は格段に高くなっていて、複雑な人物像や人間関係が要求される。
天才であるが故の挫折とか、周りの人たちとの軋轢とか、天才同士の闘いとか、狂気と紙一重とか、一般人の彼女に手痛く振られるとか、、まぁそんな可哀想な背景を背負った人物をみんなが見たいと思うかって話なのだが、、。
人間味、人間性、人間らしさというのは、文学でもドラマや映画でも重要なテーマだ。
ミステリーではどうしてもなおざりになってしまいがちで、受け手も、最初からそういうものは期待していない。
それでも、人間臭さというのは紙面( 画面 )から滲み出るというか、作家や脚本家 の人間を見る目が自然と現われてくる。
ホームズやポワロがいまだに世界中の多くのファンに支持されているのは、作品に普遍的な人間の姿が描かれているからで、作家自身の人間観がとても魅力的なのだと思う。
一つ補足。
ミステリーには頭脳ゲームの側面があるから、主人公である探偵が天才なのは然るべきだ。
でも、ミステリーの主役を天才にしないという選択肢もある。
ミス・マープルやブラウン神父、バーナビー警部や十津川警部、、。
普通の人=どこにでもいそうな良き常識人が、鋭い洞察力で推理していく。
強烈に”困ったちゃん”な天才的変人に心が疲れた人(笑)に、彼らは安らぎを与えてくれる存在だ。
癒しを求めながら、敢えてミステリーを選んじゃう不思議な人たち( 私とか…)は、謎解きがこよなく好きだけれど謎解きだけじゃいや!ってな事を言うわがままな人種である。
彼らにとって、付加価値=二次的ファクターはとても重要だ。
作家もそこに知恵を絞る。
なかなかミステリーというのは、傑作と言われるまでのハードルが高い分野かもしれない。
作家が一番の天才なのだとつくづく思う。
次回、そろそろポワロ・シリーズ最終回にしたい、あくまで願望ですが、、。
***Part11に続く***
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