2018年

12月

31日

2018年を振り返る-ちょっとポワロ-

10月から書き始めたポワロの記事。Part7まで続いている。

 

高校生の頃は、なんとなく好き、こんな仕草、こんな言葉、こんなに頭が良いなんてとんでもないわ~、やっぱり男は見た目じゃない、正義を愛する心よ!なんて地味に(?)思っていた。

 


年月を経て、彼がワールドワイドな人気者である事や、産みの親であるアガサ・クリスティーにめちゃめちゃ嫌われていた事を知って驚いた。

こんな変てこな探偵のファンなんてそういる筈がないと勝手に思い込んでいたのに、ホームズと肩を並べるほどの偉大な探偵だった、、そんな彼の大成功を喜んでいい筈の作者が「ペンをちょっと動かせば、こんな奴完全に消滅させてしまえるのに」と思う程に彼にうんざりしていた、、。なんてかわいそうなポワロ!

( まぁ自業自得って部分もあるんだけど、、。)

そんなこんなで、私の”ポワロ愛”は、途切れたり外れたりしながらも現在に至る。

 

年末という事で、この一年を振り返って考えてみようと思った。

頭の中を覗いてみたら「ポワロとピアノ」でいっぱいだった(笑)。

”音楽とピアノ”は当然の事なのだが、”ポワロ”に関しては、我ながら呆れて笑うほど書きたい事が次から次に浮かんできてしまう。

高校生の時、ポワロについて10分程度のスピーチをする為に、部屋中にクリスティ短編・長編数十冊を広げて徹夜で原稿を書いた時の事を思い出して、「変わってないねぇ、、。」ぼっと思った。

 

来年は、天皇陛下の御譲位がある。日本にとって大きな節目の年だ。

そして外交と内政、これでもかってくらい様々な問題が大山脈のように積み重なっていて、前がほとんど見えない。

何が起きているのか、何が隠されようとしているのか、何が嘘で何が本当なのか。

インターネットは、一般庶民が持てる最強のツールだ。

しっかり目を開いて見ていこうと思う。

 

皆さま、今年一年、このブログを読んで頂き、本当にありがとうございました。来年が最高に素晴らしい年になりますように。

どうぞ良いお年をお迎えください!

 

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2018年

12月

22日

ポワロ -Part7-

2013年11月、世界中のポワロファンは大きな悲しみに包まれたに違いない。

本国イギリスで11月13日、ポワロ最後の事件『カーテン』(デビッド・スーシェ主演シリーズ完結編)が放送された。

各国で日にちは違うと思うが、日本では2014年10月6日(NHK/BS)である。

 

私なぞは、NHK『名探偵ポワロ』の番組予告で『カーテン』という文字を見かけただけで、奈落の底につき落とされるような絶望感に打ちのめされた。

(はぁ、、ちょっと大袈裟なんだけど、、。)

それにしても、いつかこの日が来るとは分かっていたけれど、あ~とうとう来てしまったのね、これから私、どうすりゃいいの? ってのがドラマのファン達の共通の気持ちだったんじゃないだろうか。

                         (NHKのFBより)

『カーテン』で、ポワロはこの世を去る。

この小説は1975年に発表されたのだが、まるで犯人と刺し違えるかのような彼の最期は、世界に衝撃を与えた。

 

*以下、ピーター・ヘイニング著『名探偵ポワロ』より引用

 

<ポワロの’死’のニュースは、小説が書店に並ぶ前にニュースとなった。

これによって、ポワロがいかに卓越した人物であったかが再び証明されたのである。

ポワロの”死亡記事”は、すべての英国の新聞に掲載され、さらに”ニューヨーク・タイムズ”紙の一面にも掲載された。

それは、ほんのわずかの’実在の’人物にしか与えられない栄誉であり、まして架空の人物にそんな栄誉が与えられることはなかった。>

 

 ”デイリー・テレグラフ”

  ー19758月7日付ー


実は、この作品が執筆されたのは1943年で、発表の32年も前である。

アガサ・クリスティーは1920年にポワロをデビューさせてから、長編も短編もたくさん書いているけれど、どうもポワロが心底好きじゃなかったらしい。

「こんな憎たらしくて、おおげさで、退屈な小男……絶えず口髭をいじくりまわして、卵のような頭を傾けているような奴を、いったいどうして!どうして!どうして作ってしまったんだろうと思ってしまうことがあるわ。ペンをちょっと動かせば、こんな奴完全に消滅させてしまえるのに」(1938年”デイリー・メイル”紙より)

恋人ならとっとと別れるけど、夫婦なら仕方ないっていう感じかなぁ、、。

独身・彼氏ナシの私が、勝手に妄想を膨らませてみる、、。

 

1943年、クリスティは『カーテン』を書いてポワロを葬り去った。もう我慢できない!あんたの顔なんて見たくないって感じか、、。

でも、その原稿は出版社との協議で、耐火・盗難防止金庫の中に厳重に保管された。

世界中の読者たちが到底、納得するはずがなかったから。

そして32年後の1975年、彼女が亡くなる3ヶ月前に『カーテン-ポワロ最後の事件』として出版された。

 

コナン・ドイルも、ホームズをライヘンバッハの滝で抹殺しようと画策したけれど、読者の凄まじい抗議で『シャーロック・ホームズの帰還』になってしまったというのは有名な話だ。

 

そう言えば、『ミザリー』って怖い映画があったなぁ、、。

熱狂的な愛読者が、主人公が死ぬという物語の結末に怒り狂って作家さんを監禁しちゃうってやつ。

生みの親の作家を飛び超えて、創られた架空のキャラクターの大ファンになるって、考えてみれば皮肉な話だ。

 

  ライヘンバッハの滝

    (Wikipediaより)


「作中の人物たちが自由勝手に動き出す。」小説や脚本を書く人がこう話すのを時々聞く。

物語の世界が、現実のように偶発的に動き出すという意味だと思うが、そんなファンタジーみたいな事が本当に起きるのなら、私もいつか小説を書いてみたいな、と思う。

大嫌いにならないような登場人物にしておかないとストレスが凄いことになりそうだし、ストーリーも書きたい題材もまるで浮かばない、何よりそんな才能もないのだが、ただ「作中の人物たちが自由勝手に動き出す。」っていうのを体験してみたい。

どんなものか、想像もつかないワクワクな未知の世界だ。

 

クリスティーとポワロの間にも、作品からは窺い知れないドラマがいっぱいあったのだろう。

彼女の想像の世界で、ポワロは思う存分”暴れまくって”いたに違いない。

 

ノン!ノン!そんな馬鹿げた事、書かないでください。ウィ、私を世界最高の探偵と書いてくださいね。貴女の脳細胞はどこに行ったんですか?まさかそんなくだらない事、私がやるはずないじゃないですか!オーモンデュ、あなた最低ですね、、。

 

まぁ、嫌いになるかも、、。

クリスティーの想いに反して、エルキュール・ポワロはシャーロック・ホームズと同じくらいもの凄い人気者になった。

「なんで?!」とか、思ってたかなぁ、アガサ・クリスティー、、。

 

***Part8に続く***

                                            


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2018年

12月

10日

ポワロ -Part6-

TVドラマ『名探偵ポワロ』は、1989年、イギリスのLWT(ロンドン・ウィークエンド・テレビジョン)によって制作が始まった。

 

ドラマを作るにあたり、その時代背景は1936年に設定された。

なにしろクリスティーのポワロものは、1920年のデビュー作『スタイルズ荘の怪事件』から、ポワロ最後の事件『カーテン』まで、実に55年に及ぶ。

その間、ロンドンの街の様子、交通・建築・ファッション等々、あらゆる物が劇的に変化していったわけで、設定年代を具体的に決めた方がドラマのイメージがはっきりするというプロデューサーの考えだった。

 

英国にとって1930年代後半といえば、後に世界を大きく変える近代的発明品がたくさん考案され、未来への希望にあふれた新しい時代だった。

当時の最新流行だったピカピカのクラシックカー、女性たちの個性的な帽子や色鮮やかなファッション、伝統的な風景の中に突然現れるモダンな建物。ドラマの背景には、そうした時代の先端にあった様々な事物と一緒に、歴史的な事件も記録映像を交えて挿入されている。

 

例えば、豪華客船クイーン・メリー号の処女航海、イギリス皇太子(エドワード8世)の英領インド訪問、ファシズム(ナチス)の台頭、フレッド・ペリーの全仏オープン・テニス・トーナメント優勝とグランドスラム達成、G・ガーシュインの死去、等々。

 

 


史実と物語を上手に絡めて、あたかもポワロやヘイスティングス大尉、ミス・レモンやジャップ警部が本当にその場にいたように思わせてしまう、時代に溶け込ませてしまう、、。

こういうところ、イギリスのドラマ、特に脚本家のレベルがほんと凄いなぁ。

まぁ、シェークスピアがいた国だから当たり前か。でも日本だって、近松門左衛門も河竹黙阿弥も、井原西鶴だっていたのだ。

脚本がほんと大事だって、ようやく日本のテレビドラマ界も分かってきたようだけど、奇をてらうような斜め上の方向に行っているようなのも多い、、。

そうじゃないんだってばぁ、、(泣)。

 

『名探偵ポワロ』シリーズは世界的な人気を博したが、美術の面でも高い評価を得ている。

ポワロが住む ”ホワイトヘブン・マンション” (実際は、チャーターハウス・スクエアに建つ”フローリン・コート”)は、1936年に建てられたアール・デコ様式の建物で、外壁の大きなカーブが優雅で美しい。

私はよく分からないのだが、ドラマで使われる家具などの調度品や俳優のファッションは、ジュエリーなどの小物に至るまで当時のアール・デコ様式でほぼ統一されているらしい。

美術における1930年代の世界観が、専門家の目から見てもとことん再現されているのだ。

 


そして、あの有名なオープニング。

 

哀愁のある古風な音楽はどことなくイギリス的で、ミステリーに付き物の、”誰の人生にも起こり得る悲しい災難の予感”という危険な香りがそこはかとなく漂う。映像には当時珍しかったコンピューター技術が導入され、「テレビ番組で最も斬新なもののひとつ」として非常に話題になった。

「30年代の装飾的なキュービズムの雰囲気を作り出し、マラード号(蒸気機関車)の車輪から’ポワロ’というタイトル文字が浮かび上がる映像の撮影には何か月もの時間が費やされた。」(ピーター・ヘイニング著『名探偵ポワロ』)

ふむ。。ってことでキュービズムについてちょっと調べてみた。

 

*キュービズム (Wikipedia)

 

20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向である。それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収め、ルネサンス以来の一点透視図法を否定した。〜以下略〜

 

      ファン・グリス『ピカソの肖像』(1912)


そういえば、ドラマの中で、容疑者の部屋にあった大きな絵画がキュービズムだったような、、。

 

ポワロ・シリーズは、プロデューサーや制作会社が変わったりして若干の変化があったが、その世界的な人気は衰えることがなく、ほぼ全ての原作を映像化して、2013年6月、24年の歳月を経て完結した。

制作スタッフのクリスティ作品へのリスペクトやプロ意識、その結果としてのドラマの質の高さを改めて感じる。

 

日本の長寿ドラマと言えば....、『水戸黄門』かぁ....。

あ、『相棒』も18年!

けっこう好きです、杉下右京さん。24年までもう一踏ん張り ^ ^//

 

***Part7に続く***

 

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2018年

11月

17日

ポワロ -Part5-

降霊術というと、日本の場合はこっくりさんとかイタコを思い浮かべる。

欧米では、ミディアムと呼ばれるプロフェッショナルの霊媒と出席者たちが、手をつないでテーブルを囲む。

『インシディアス』とか、最近のホラー映画でもその場面が出てくるから、現在でも普通(?)に行われているようだ。まぁ一部だと思うけど、、。

 


探偵小説にとって、降霊術は反則中の反則だ。

なにせ、殺された被害者が「私は◯◯にやられました。」なんて教えてくれるなら、捜査も推理もいらない。

ポワロ作品にはこの降霊術がけっこう登場する。

もちろん犯人を教えてくれるのではなく、犯人を動揺させて自白に導く手段なのだが、イギリス人が日本人と同じくらい幽霊とか怪奇現象が大好きで、交霊会が当時の流行りだった事を考えると、クリスティーのサービス精神や茶目っ気を感じてしまう。

 

彼女は、いろいろと推理小説の反則をやっている。

『アクロイド殺人事件(1926年発表)』は読者たちの度肝を抜いて大変な評判になった。

1928年にノックスという作家が「ノックスの十戒」という推理小説のルールを発表しているが、これは『アクロイド殺人事件』を読んで、よっぽど「これはいかん!反則だ!」と思ったからに違いない。

 

*ノックスの十戒 ( Wikipediaより )

 1.犯人は物語の当初に登場していなければならない

 2.探偵方法に超自然能力を用いてはならない

 3.犯行現場に秘密に抜け穴・通路が二つ以上あってはならない

 4.未発見の毒薬、難解な科学的証明を要する機械を犯行に用いてはならない

 5.中国人を登場させてはならない

 6.探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない

 7.変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない

 8.探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならない

 9.サイドキック(探偵の助手となる者、いわゆるワトスン役のこと)は自分の判断を全て読者に知らせねばならない

10.双子・一人二役は予め読者に知らされなければならない

 

5番が笑える、、。

フー・マンチューのような万能の怪人のことを指す、と注釈にあったけど。

(イギリスの作家サックス・ローマーが創造した架空の中国人)

 


1934年に発表された『オリエント急行殺人事件』では、「ノックスの十戒」の裏をかいて見事に大反則をやらかした。

発表時、賛否両論をまき起こしたようだが、現在ではミステリー史に残る傑作の評価を得て、何度もドラマ・映画化されている。

彼女の”してやったり!”な得意顔が目に浮かぶ。

この作品については、また改めていっぱい(笑)書きたい。

 

ポワロ作品の他にも、『そして誰もいなくなった』や『検察側の証人』など、探偵は出てこないが意外な結末の名作がたくさんある。

アガサ・クリスティーという作家は、読者には驚きと喜びを与え批評家には”あかんべえ”をやる、まさに気骨と皮肉精神にあふれた生粋の『英国人』だったんじゃないかと思う。

 

***Part6に続く***

 

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2018年

11月

06日

ポワロ -Part4-

クリスティー作品の魅力の一つは、事件の舞台にゴージャスな場所がたくさん登場することだ。

 

オリエント急行やエジプトのクルーズ船、メソポタミアの遺跡旅行や地中海のリゾート、大富豪の広大な邸宅には執事がいて、着飾った紳士淑女たちが銀食器の並ぶディナーの卓に着く。

こういうのはイギリスの上流社会で長年に渡って根付いた文化なので、そうと知っていれば全くわざとらしさを感じない。

ポワロは、身分は私立探偵だが、裕福な依頼人たちから事件解決で多額の謝礼金を貰うらしく、身なりから住まい、宿泊するホテルまで一流である。

下宿屋に住んで貧民街や阿片窟にも出入りし、裏社会にまで通じていたシャーロック・ホームズとは大違いだ。

 

ドラマのポワロシリーズを見る女性たちは、登場する貴婦人・紳士のファッションや小物に目を凝らし、泊まる高級ホテルのアメニティグッズ一つ見逃さない。

お洒落で洗練されたポワロの佇まいは、そういうファンたちの眼鏡にかなう。

彼は、完璧な上位階級の住人なのだ。

 

そんな贅沢な雰囲気の中で殺人事件が起こるという設定は、日本のミステリーではなかなか成功しない。どうにも嘘くさい。

人物に文化が漂わないから、悪く言えば成金趣味にしか見えない。

ITで成功した社長とか投資家とか、ただ財産をたくさん持っているだけでは駄目なのだ。

 

上流階級は歴史を通じて閉鎖的であり、良くも悪くも独特な作法を持っている。

日本の場合、戦前を舞台にした横溝正史の作品なんかに、華族という身分の人たちが登場する。子爵や伯爵だ。

そこで描かれる華族たちは、格式はあっても華やかさがない。日本に社交界という制度がなかったからか、”侘び寂び”の美意識のせいか、、。

特権を持つ者の矜持と義務感は武家制度と共に滅び、俄仕立ての社交界は欧州のものとは別物だった。

 

イギリスでは、出自による身分制度が歴史的にすっかり定着していて、今を生きる人々の意識にまで深く浸透していると聞く。

最上位のUpper Classの生活は、現代でも憧れをもって見られているのだ。

筋金入りの階級社会だから、日本のように財産によって若干の格差がある、なんてのとはレベルが違う。

越えられない壁を、国民自ら好んで維持しているようにも見える。

民衆の中心にいた日本の天皇と、民衆の頂点にいたイギリス国王の差というのか、国民の考え方として、階級による差違を当然のことと認める空気がイギリスにはあるんだろうか。

 

そうした意味で、ポワロシリーズで醸し出されるハイソサエティな雰囲気はリアルである。

莫大な遺産を巡る殺人事件というのも、かなり現実的なお話なのだ。

 

物語には、ほとんど働きもせずに親族の資産家に寄生し、遺産をあてに生活している人たちがいっぱい出てきてちょっと驚く。

叔父さんや叔母さん、姪だの甥だの養子や義理の子や恩人の娘まで、まぁ様々な縁で人が集まっている。

元気な若者が昼間からぷらぷら遊んでいても、身分制度のお墨付きがあるおかげで、誰から文句を言われるでも変に思われるでもない。

 

ポワロの相棒、ヘイスティングス大尉もイートン・カレッジ出身だからバリバリのUpper Classだ。

ポワロの捜査に付き合う暇も財力もあるし、趣味はゴルフと車、たまに投資に失敗して落ち込むことはあっても、生活に困るようなことにはならない。

いい大人が暇を持て余して探偵のお手伝い、高級車に乗ってゴルフ三昧というのは、いかにもイギリス的かもしれない。

 


日本の有名な探偵、金田一耕助はどう見ても貧しく、明智小五郎の助手は15歳の少年である。

彼らは上流階級でも財産家でもなく、趣味で探偵をやっているような非常に変わった人たちだ。

そして現代の日本の名探偵は、警視庁か科捜研にいてちゃんと通常のお仕事をしている。

 

閑人(ひまじん)の大人は、日本では変人扱いで肩身の狭いのが普通である。

士農工商の区分があった江戸時代であっても、働かない者に対する風当たりは強かった。

時代小説によく出てくる旗本の次男坊や三男坊は、暇を持て余して悪さをするどうしようもない奴って役回りだ。

彼らは”部屋住み”と呼ばれ、とっとと他家に養子に出されるか一生ごくつぶしの境遇で過ごす。

裕福な商家でも、放蕩が過ぎる跡取り息子は、親族会議で勘当と決まるとさっさと家から追い出された。

 

労働に対する国民意識の違いというか、日本はみんなが平等に真面目に働く社会なんだなぁ、、。

 

ポワロのゴージャス・ワールドについて書こうと思ったのに、とんでもない方向に話が行ってしまった。

まぁ、ハイソサエティに塵ほども縁がなく、贅沢な暮らしには想像力がまったく働かないのだから仕方がない。

ポワロは、別世界の人だからこそ魅力的なのだ。

 

ドラマ『名探偵ポワロ』が、イギリスの良き時代--第二次世界大戦後に植民地の大半を失い、衰退に向かう大英帝国の最後の輝かしい時代--1930年代のイギリスを背景に制作されたというのも、とても意味深い事だと思う。

ポワロと登場人物たちは、その時代のクラシカルなお洒落がどんなに素敵だったか、上流社会の人々の洗練された振る舞いがどんなに優雅だったか、さりげなく見せてくれる。

そんなところに英国人たちのプライドを感じて、イギリス好きの私なぞは一人にんまりしてしまうのだ。

 

***Part5に続く***

 

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2018年

10月

24日

ポワロ -Part3-

第一次世界大戦中、アガサ・クリスティーは看護師や薬剤師の助手として奉仕活動に従事した。

そこで得た薬学の知識を駆使して数々のミステリー作品を執筆し、その多くが世界的なベストセラーになった。

エルキュール・ポワロは、33の長編、54の短編、1つの戯曲に登場する。

 

中学時代に読み始めたポワロ・シリーズだが、いろいろな種類の毒薬が出てきて、それも頻繁に出てくるものだから、中学生のくせに砒素とかモルヒネとか覚えてしまった。

1990年にNHKで始まった英TVドラマ『名探偵ポワロ』は、主演のデヴィッド・スーシェが大好きで、好きなエピソードは英語版で繰り返し見た。

おかげで、これまた覚えなくていい毒薬の英単語と、使用する際の注意事項なんてのを無駄にたくさん覚えた。

 

例えば、ストリキニーネは非常に苦いので、怪しまれずに飲ませるには生牡蠣なんかと一緒にツルっといくか濃いコーヒーに混ぜる。

ヒ素中毒は胃炎と症状が酷似しているので、ボンクラなお医者に普段から診断させる。

リン中毒は緑色の息を吐く場合がまれにあるので、迷信深い田舎だと魂が抜けた!とか言って騙せるかも....。

しかし犯人が逃げおおせた成功例が一つもないので、ちっとも参考にならない(笑)。

いや、別に参考にしようって訳じゃなくて、、。

 


青酸カリとか一酸化中毒とか、英語で言える!と自慢したら、友人にちょっと言ってみろと言われた。

「エ」の口を保ちながら「ア」と発音するという至難の技を使って苦労して発音したら、「ふ〜ん。。」と胡散臭げな目で見られて終わりだったので、ちょっとは尊敬しろ、と思ったが、客観的に見て友人の反応が正しいように思われたので、これは人前でやってはいけない自慢だな、と悟った。

 

古典ミステリーファンにとって、殺人は単なる舞台設定の一つである。

そこにリアリティーを感じさせる必要はほぼない。

探偵が登場して謎解きが始まり、犯人を含めた周辺の人々の過去の秘密や暗い欲望、複雑な利害関係が白日の下に晒される。

そこに至るまでの人々の姿がリアルなのであって、トリックの巧妙さと共に、いかに登場人物が自然に行動するか、犯人にさえ感情移入できるほどに人の心の内面が描かれていれば、きっとその作品は傑作ミステリーだ。

 

それでも前提となる事件としては、首を絞めたり銃やナイフを使うより、毒殺はどこか知的な趣がある。

”激情に駆られて”という設定が成り立たないからだ。

犯人たちは巧妙に毒薬を手に入れ、周到に準備し、もちろん殺害現場では何食わぬ顔をしている。

クリスティーは薬学の専門知識を使って、犯行そのものにリアリティーをもたせた。

 

最近、『アガサ・クリスティーと14の毒薬』という本が出版された。

イギリスのサイエンス・ライター、キャサリン・ハーカップ氏著である。

サイエンス・ライターって耳慣れない職業なので調べてみた。

 

*************

*サイエンス・ライター(Wikipedia)

 

科学( 主に自然科学 )に関連する記述を専門に行う著作家のこと。欧米では「science journalist」と呼ばれることが一般的である。

サイエンス・ライターは、科学を、ジャーナリズムの観点から解説・説明すると同時に、高度で複雑な専門用語や難解な数式などを簡素かつ明確に説明する能力・技術・解説能力を必要とする。

〜以下略〜

*************

ふ〜む、もの凄く賢い理系の著作家さんらしい。

この本では、毒薬の特質を科学的に説明しつつ、クリスティー作品の中でどう使われているか分かりやすく解説しているそうだ。

文芸作家じゃなく”サイエンス・ライター”が書いているので、きっと現実的で信頼できる内容のはず、、。

ドラマで仕入れたいい加減な知識を、きちんと教えてくれるに違いない。

 

秋の夜長に読んでみるか。

正しく知ったからって、誰に自慢できるわけじゃないんだけど、、。

 

***Part4に続く***

 

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2018年

10月

18日

ポワロ -Part2-

ミステリー好きの間で一般的なのは、やはりシャーロック・ホームズだ。

シャーロキアンという種族が世界中にいる。

それに比べて、ポワロは日本ではあまり人気がない。

NHKの海外ドラマ『名探偵ポワロ』で初めて知った人の方が多いんじゃないだろうか。

 

だいたい、外見からして女性にモテるタイプではないし、極端に几帳面でもったいぶった言動は男性からもきっと敬遠される。

小柄で小太り、卵型の頭と大きな口髭、寸分隙のない身だしなみで、何事にも左右非対称を嫌い、秩序と方法を何より重んじるベルギー人探偵。

長身でダンディー、麻薬常習者で整理整頓のできないホームズとは大違いだ。

 


第一次世界大戦中(1914-1918)、欧州大陸からイギリスに亡命してきたベルギー人という設定もなかなか興味深い。

当時のイギリス人はたいてい外国人嫌いで、特にフランスとイギリスは積年の敵対関係にあった。

ベルギーがフランス語圏であることを考えれば、作者アガサ・クリスティーが、国民に熱狂的に愛されていたシャーロック・ホームズと全く正反対のキャラクターをあえて創り出したように思われる。

 

イギリス人とフランス人の関係はかなり面白い。

イギリス人がフランス人を揶揄する呼び名「カエル野郎」は有名だ。

かたつむりやカエルを食べる変な野郎っていう意味だ。

対して、フランス人はイギリス人を「ローストビーフ」と呼ぶ。

ローストビーフが伝統的なイギリス料理だという事と、日照時間の少ない地で育ったイギリス人が、日に当たるとすぐに赤いローストビーフ色になるのをからかう意味があるらしい。(他に諸説あり)

 

『名探偵ポワロ』の中でも、「frog(蛙)」の場面はさりげなく何回か出てくる。

( 英語版で見ると、こういう翻訳に困る台詞(笑)が聞ける。)

子供の喧嘩レベルの悪口をいい年をした大人がポロっと口にしてしまうというのは、なかなか根の深い国民感情である事をうかがわせる。

他にも、ポワロは度々、登場人物のイギリス人たちから「外国人!」「フランス人!」と偏見をもった差別的なニュアンスで接される。ポワロはベルギー人なのだが、、。

 

英仏は、中世の昔から血なまぐさい戦争を繰り返してきた。

有名なのは「百年戦争」。ジャンヌ・ダルクが大活躍した戦争だ。

調べてみたら、本当に100年以上(1337年〜1453年)、休戦の時期もあるが116年もの間、イギリスとフランスは酷い対立状態にあった。

 

その後も、インド植民地を取り合ったり、アメリカ独立戦争でフランスがちゃっかり参戦したり、ナポレオンがイギリス征服を企んだり、まぁ仲悪いったらこの上ない。

実に千年に渡って戦ってきたのだ。

 

            (百年戦争)


ポワロ初登場の事件『スタイルズ荘の怪事件』の発表が1920年、第一次世界大戦が終わって間もなくである。

この頃、列強諸国は大戦の反省からヴェルサイユ体制で国際協調を謳い、イギリスはフランスと共にドイツ軍国主義を封じ込めようとしていた。

英仏は、共通の強敵を前にして、ようやく関係改善に舵を切った。

 

そんな時代背景を考えると、ベルギー人のポワロとイギリス人のヘイスティングス大尉というのは、言わば国家親善カップルみたいなもので、クリスティーがもしかしたら「戦争はもうたくさん!」って思っていたのかもしれないなぁ、、なんて想像してみる。

 

長い歴史を乗り越えて、英仏は今ではトムとジェリーくらいの仲良し--仲良くケンカしな〜♫ 的な友だちになった。

その激動の転換期が始まる時代にポワロがイギリスからデビューしたというのは、まさに”時代の空気”だ。

フランス人という直球を避けてベルギーからの亡命者にしたのは、クリスティーの絶妙なバランス感覚だったかも、、。

 

ともかく、この後エルキュール・ポワロは時代を超え、シャーロック・ホームズと並んで世界中で愛される著名な名探偵になる。(写真はWikipediaより)

 

***Part3に続く***

 

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2018年

10月

11日

ポワロ -Part1-

7年前、IT関連に詳しいYさんがブログ開設を勧めてくれた。

続けられるか不安だったし、ブログを書くほどJazzに精通しているわけじゃない。あまり気が向かなかった。

でも「好きなことを何でも書いていい。」と言われて、すぐにエルキュール・ポワロのことを思った。

急にわくわくした。

 

このブログでずいぶん前に、高校生の時の悲しいポワロ体験を書いた。

あれは、今思い出してもちょっと胸が痛い....。

私ってもしかして変なやつなのか?、とじんわり悟った人生最初の瞬間だ。

以来、源氏物語と鴎外が好きとは言っても、ポワロが好きとは口に出せなくなった。

なんというか、”青春時代のトラウマ”みたいなものだ。

ブログで好きなことを書けるなら、いつか誰にも気兼ねなくポワロのことを書きたいと思って、7年が過ぎた。

好物は最初に食べないタイプなんだな、私、、。

 

中学生の頃から大好きだったアガサ・クリスティーの推理小説について、高校生の時とは違う大人の角度(笑)から、あれこれ考えてみたいと思います。

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2018年

9月

27日

日本人の民度

この頃、外国からたくさん観光客が来ている。

そして、口々に「日本は綺麗だ。街にゴミが落ちてない!」と褒めてくれる。

中国の人は特に、「日本人は、ゴミを捨てないで持ち帰るのだ。民度が高い。」と、日本人の文化水準まで褒めてくれる。

 

こういう時、私はもやもやっと、数十年前の新宿や渋谷のセンター街を思い出す。

通りにはゴミがいっぱいで、故郷の新潟と比べて「東京は汚いなぁ。」と思っていた。

いつからこんなに綺麗になったんだろう?

観光客でない私も、時々、あまりにゴミが落ちてなくて驚く。

 

夏目漱石の小説の中で、主人公が、食べ終わった弁当の空箱を、走る列車の窓から力いっぱい外に放り投げる場面がある。その後、別の人も、果物の皮や種を新聞紙にくるんでポイと窓から投げ捨てる。

明治の人は、こういうのはまったく平気だったのだ。

昭和の人だって、川にいろいろ投げ込んでいた。テレビだって自転車だって投げ込んでいた。

歩きながらガムの包み紙をポイポイ捨てる人は、どこの街でも普通にたくさんいた。

平成になって、いきなり日本国民の民度が上がったんだろうか?

謎だ、、。教育の賜物かなぁ、、。

 

そんな事を思いながら、新宿なぞに行けば「日本人は生来、ゴミのポイ捨てはしない民族です。」てな顔をして歩いている自分が、なんだか可笑しくてたまらない。

漱石も、「へぇ〜。そうだったかね?」とお茶目に首をかしげる気がした。

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2018年

9月

21日

ブラックアウト

今年の夏は、列島中が、酷暑に加えて台風や地震で被害を受けた。

特に北海道では、「史上初のブラックアウト」が起きた。

停電による様々な混乱が報道されて、つくづく私たちの生活は電気なしでは成り立たないのだと痛感した。

 

「史上初のブラックアウト」と聞いて、ずいぶん昔に見た、織田裕二主演の『ホワイトアウト』という映画をぼっと思い出した。( 不謹慎ですみません、、。)

雪に閉ざされた山奥のダムで、テロリストと織田裕二扮する普通の青年が死闘を繰り広げるという日本版『ダイ・ハード』みたいなストーリーだ。

邦画にしては緊迫感あふれる演出で、織田裕二=青島刑事(『踊る大捜査線』)でファンだったから、かなり印象に残っている。

”ブラックアウト”と”ホワイトアウト”。

どっちもアウトだなぁ…。悪い事が起こるぞっていう意味で…。

 


”ブラックアウト”という言葉は、確かドラマ『名探偵ポワロ』の台詞で初めて聞いたのだ。(字幕で見たから、英語で”blackout”)

政情不安が続く1930年代のアルゼンチンが舞台で、街じゅうに不穏な気配が漂い、ポワロが泊まったホテルでは毎晩のように”blackout”が起きる。

 

実際、その頃のブエノスアイレスでは軍部によるクーデターが起きていて、”ブラックアウト”は政治やインフラがしっかりしていない国で起きるものかと思っていたら、先進国アメリカ・ニューヨークでも過去数回、大規模なものが起きている(1965年、1977年、2003年)。

まぁ、あの国は大きいし住民もたくさんいて使う電気量もきっと半端ないから、時々は仕方ないのかもしれない。

 

でもでもまさか、この日本で起きるなんて!と報道各社も驚いたんだろう、今回の北海道の停電は衝撃を以って「史上初のブラックアウト!」と伝えている。

 

ん? 阪神淡路大震災や東日本大震災の時とは違うのか?

調べてみたら、あれは”ブラウンアウト”の状態なのだそうだ。

電力システム全域が停電したのではないので、”ブラックアウト”ではないらしい。

アウトにもいろいろあるのだ。

 

停電発生後、メディアでは日本のエネルギー政策について侃々諤々の議論が交わされている。

議論を聞いたり読んだりすると、どこまでいっても平行線のような気がしてちょっと虚しくなる。

こんな危機を経験して、いつまで結論が出ない議論を続けるんだろうか?

 

不眠不休で復旧に尽力奮闘した現場の電力マン、自治体の職員の方々。

それに、各地で災害救助にかけつけた自衛隊やボランティアの人たち。

こういう人たちに、日本は支えられているのだなぁ、、。改めて頭が下がる思いがした。

 

そして、電気の大切さに思い到ると、当たり前の日常が、実は決して当たり前じゃないことにはたと気付いて、薄氷の上にいるような妙にこわごわした心持ちになった。

 

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2018年

9月

14日

9.11

2001年のあの時、私はJazz仲間たちと車の中にいた。

 

お昼に待ち合わせて都内から車で数時間、近郊のライブハウスのセッションに、ドライブがてらみんなで遊びに行った。

 


半日、ワイワイ楽しく過ごし、帰りの車中は少々疲れたのもあって、ラジオをつけてお喋りも途切れがちだった。

夜も遅くなっていて、窓から見えるのはまばらな街路樹と家々の黒い影、遠くに街の光がちらほら見えた。

すると突然、ラジオからあのニュースが流れてきたのだ。

 

みんなびっくりして、最初は何かの冗談かと思った。

「ま、さか、ね…?」

ニュースを聞いても、状況がどうにも想像できなかった。

 

やがて家に着いて、車から降りてみんなに挨拶して別れた後、急いで部屋のTVをつけるとどのチャンネルにも同じあの映像が映っていた。

信じられなかった、、。私は、何を見てるんだ?

 

以上が、私の中の鮮明な9.11の記憶だ。

 

ところが今朝、2001年9月11日が何曜日だったか調べてみて驚いた。

日本時間で水曜日である。

一緒だったJazz仲間たちは普通のサラリーマンで、水曜日の昼間から遊んでいるはずがないのだ。

Jazzライブハウスのセッションが、平日の午後、早い時間から始まるってのも妙な話だ。

私の記憶の中で、なにかが混線している、、。

これが『間違った記憶(False Memory)』ってやつかぁ、、。

ちょっと呆然とした。

 

まぁ、今更どれが正しい、これが間違いと考えてみても仕方がない。

現にその衝撃的な事件は起こり、その後の世界は変わっていった。

隠れていた厄介な問題がどんどん表に現れてくるようになって、その意味で”歴史の分岐点”と捉える見方もある。

 

私にとっても、この時期は人生の分岐点だった。

この4年後、私は家にあった沢山のシンセサイザーをすっかり売り払って、本気でJazzプレイヤーになろうと決心するのだ。

環境の変化と同時に、音楽に対する気持ちや考え方もずいぶん変わった。

 

つらつら思い返してみれば、他にも大きな分岐点が幾つかあって、私の人生はジグザグというか、運転教習所のクランクコースみたいだなぁ、と思った。

S字じゃなくて、直角なのだ。それもかなりのスピードで突っ込んでいる(笑)。

潔いと言えば聞こえはいいが、前ばかりを見て、周りにあった大切なものを振り捨ててきたんじゃないだろうか?

 

9.11後の世界について書こうと思っていたのに、『間違った記憶(False Memory)』に偶々気付き、予定外の「我が人生の反省」までしてしまった...。

 

今日は、世界中のあらゆる場所で、「9.11のあの時、あなたは何をしていましたか?」という質問がされていたんじゃないだろうか?

それに答える時、人は人生を顧みて何を思うんだろう?

 

アメリカ以外の国では、きっとほとんどの人が、私のようにただぼんやりと当時の風景を思い描いて「あぁ、もうそんなに経つんだ…。」と呟いたに違いない。

陰謀論を読み返して、怒りに震えた人もいるかもしれない。

現在の国際情勢の不安の方が深刻だと訴える人もいるだろう。

あれから長い年月が過ぎた。

それでも、ほぼリアルタイムで報じられたあの悲惨な映像が私たちの記憶から消えることはないし、憎しみの連鎖が始まった瞬間を忘れることは絶対にないのだと思う。

 

時代の転換点の大きな悲しみの日に、それぞれが17年の記憶をたどり、自分の人生と合わせてさまざまな思いを巡らす、今日は、そんな日なのだろうと思った。(2018・9・11)

 

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2018年

9月

07日

お墓参り -Part3-

商店街を歩くうちに、これから鷗外のお墓にお参りするのだと思って、胸がキュンと締め付けられる気がした。

ワクワクとかドキドキとかそんな軽々しいものではなく、もっと厳粛な、ライブ本番前の緊張感にも似た気持ち。

それと、ほんのちょっとの後悔--やっぱ今日じゃなくて、もっと万全の日にするんだった、、とめそめそする気持ち。

二つの気持ちが心の中でせめぎ合って、その摩擦熱でエネルギーが生じたのか、私はかなりなハイスピードでずんずん歩いた。

頭の中でまた別のことを考えないように、わき目も振らずに歩いた。

 

そのうちに、禅林寺をずいぶん通り越したところで、あれっ?と気付いた。

こういうのは、自宅付近で散歩をしていて時々ある。

考え事をしながら歩いていて、気付かずに自分の家を過ぎてしまう。

気持ち良く歩いていて、足にストップがかからなくなるのだ。

 

携帯で地図を調べ直して引き返した。

夏の名残りのような陽の光をいっぱいに浴びて歩き通したので、全身汗だらけになりながら禅林寺の境内に入った。

隣りの八幡大神社では盛大な例大祭が行われていて、屋台も出て沢山の人で賑やかだ。

お寺と神社がこんなふうに併存するのは奇妙な気がしたが、後で建立の歴史を知ってみれば、日本独特な宗教観が自然にすんなり分かる。

 

すぐ隣りだというのに、寺の墓地には神社の祭りの音は全く聞こえて来ない。ひっそりと静まりかえっている。

私は、鷗外のお墓を探してちょっと歩いた。

すると、入り口近くですぐに見つけてあっと思った。

思いの外、墓碑が大きくてそれも驚いたのだが、お墓の前にお供えしてある花が半分しおれていて、あっと思ったのだ。

なぜお墓参りをするのに、私は花を買って来なかったんだろう、、。

 

            ( 中央の大きなお墓が、鷗外のお墓です。)

 

お盆でも命日でもないのに、綺麗な花やお供え物があるはずがないのだが、それでもちょっと寂しい気がして、私は自分の馬鹿さ加減と気の利かなさが心(しん)から残念だった。

今日はリハーサルだからとか訳の分からない言い訳をごにょごにょつぶやいて、それからやおら気を取り直し、墓碑に向かって手を合わせてお辞儀をした。

訪ねて行った家の塀の外でお辞儀をしているような妙な気分である。

気持ちが出来ていない。

尊敬や同感や疑問や愛惜が、整理されないまま、ずっと長い間に大きな漠とした塊になっていて、手を合わせても言葉が出てこない。挨拶もろくに出来ないのだ。

やっぱり、お墓参りはまだ早かった、、。

 

20代であろう若い女性二人が、すぐ斜め向かいにある太宰のお墓の前で写真を撮っていた。

少し離れて高校生らしい男の子が一人、彼女たちが立ち去るのを待っている様子である。

 

「若い人たちは太宰が好きなのね。( 私も最近、好きだけど....。) でも、鷗外の良さを知らずにいるなんて文学好きとしてどうなのかしら? ( 鷗外の墓の写真を撮っている )私を、胡散くさそうに見るのはやめなさい!太宰が鷗外を尊敬していたって太宰ファンなら知っているでしょう?」

たちまち私は、オロオロとつまらない事を考え出した。

多勢に無勢の負け惜しみだ。

 

鷗外は穏やかに苦笑し、太宰は情け深く「そんな事考えなくて大丈夫ですよ。」と声を掛けてくれるような気がふとした。

二人の芸術家が眠るこの場所には、世俗を超えた優しい高貴な空気が流れていた。

 

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2018年

9月

01日

お墓参り -Part2-

森鴎外のお墓がある三鷹・禅林寺は黄檗宗のお寺で、太宰治のお墓もあるので文学好きの人たちにはちょっと有名だ。

 

太宰治は最近ファンになった。

たまたま作品を読み直す機会があって、今更なんだけれどすごい作家だなぁと思う。

太宰が鷗外を敬愛していたことは、彼の短編いくつかに鷗外についての記述があって、そんな大層に言うのではないが太宰の尊敬の気持ちがはっきりと伝わってくる。

美知子夫人も、そんな彼の気持ちを汲んで、鷗外の眠る禅林寺に太宰を葬ったのだそうだ。

 

『女の決闘』という太宰の作品の中で、目に止まった文章がある。

この作品は、鷗外が翻訳したドイツの作家ヘルベルト・オイレンベルク「女の決闘」という短編を下敷きに、太宰流の様々な視点を加えて、深みのある現代的な作品に創り変えたものだ。

その冒頭の部分にこうある。

「鷗外自身の小説だって、みんな書き出しが巧いですものね。スラスラ読みいいように書いて在ります。ずいぶん読者に親切で、愛情持っていた人だと思います。」

太宰が、鷗外の心の優しさについて触れていて嬉しくなった。

とかく”冷徹”とか”冷酷”とか言われる鷗外だが、実はとてつもなく愛情深い人だったと私は思っている。

 

さて、お墓参り決行の日は9月9日(土)で、まだ夏の名残りの強い日差しが照りつけていた。

長かった夏休みの余韻もそこはかとなく残っていて、あちこちで子供たちが声をあげて遊び走っている。

それにしても親子連れが多いな、と思っていたら、その日は八幡大神社の例大祭なのだった。( 毎年9月の第2土曜、日曜日 )

 

八幡大神社は、江戸時代から続く由緒ある神社で、明治の神仏分離令で、別当寺( 神仏習合が行われていた時代に、神社を管理する為に置かれた寺 )であった禅林寺と分かれた。

その為、神社とお寺の地所は隣り合わせである。

 

            (写真はWikipediaより)


禅林寺に向かって商店街を歩いて行くと、神輿を担いだ法被姿の一団と行き合った。

それほど大きくない神輿を守るように囲んで、大人も子供も一緒になってゆっくり歩いて行く。小さな一団だ。

後ろには、近所の家族連れらしい人たちが三々五々、団扇をのんびりあおぎながらついて歩いている。

八幡大神社の例大祭の様子がインターネットにあるが、大変に盛大で威勢がいい。神輿も大きくて豪華だ。

私が出会った行列は、日曜日クライマックス前の町内会の神輿行列だったのかもしれない。

 

日本の神さまは、一年に一回、お社を出て町内の様子を見て廻る。

どれどれ、みんな息災であるか?

そして、祭りの終わりにお神酒を一緒に飲んで感謝を捧げ、民は神さまともっと仲良しになるのだ。

良い風習だなぁと思う。

 

日本人は無宗教と言われるが、日本人にとって神さまは、日々の生活の大本のずっと深いところに存在するので普段は意識にのぼらない。

これはたぶん信仰心とは違うもので、畏れと言ってもいい。

畏れ敬う対象すべてに、”神さま”という名前をつけたのではないかと思ったりする。

神道も仏教もキリスト教も同じ扱いなのはそのせいで、日本人にとって神さまは一つの対象ではなく、もっと大きくて漠然としたものなのかもしれない。

悪いことをすると”ばちがあたる”と信じている人が多いのは、きっと神さまが日常にいるからだ。

 

神さまはほんとにいるのか?

 

世界中の唯物論者が、人間の心の中の根源的な畏怖や突き上げるような喜悦などについて、ホルモンとか脳内の電気信号とかそういうもので説明がつくと言う。

説明がつく事例はきっとあるんだろう。

でも、それは一つの側面でしかないし、現在の科学で人類が知り得ることなんてどれ程のものかと思う。

多くの芸術家や物理学者が、神の存在を感じる神秘の瞬間を体験している。

科学者たちは、それも今ある科学で説明するんだろうか?

神が電気信号だなんて、、そんなぁ、、。

 

私はと言えば、すべてを超越した大いなるものはどこかに存在していて、人類が『人間本来の姿--人間の真の実態』を解明した時、この世/あの世/宇宙の全容が明らかになるのだと思っている。

ん〜、SF的・超常現象的な大ロマンである(笑)。

 

***Part3に続く***

 

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2018年

8月

07日

お墓参り

お盆も近いからか、去年の秋、三鷹の禅林寺にお墓参りをしたことを思い出した。

 

その日は三鷹のライブハウスでイベントがあって、午前中からお店のリハーサルに出掛けた。

無事リハーサルが終わって、みんなでお昼を食べて本番までずいぶん時間が空いたので、私はずっと前から思っていた”禅林寺のお墓参り”を決行することにした。

決行とか大げさな、と思うかもしれないが、森鴎外ファンにとって三鷹・禅林寺は特別な聖地である。

(禅林寺HPより)


鷗外は60歳で亡くなり、禅林寺に葬られた。

『墓ハ森林太郎(鷗外の本名)墓ノ外一字モホルベカラズ』と遺言し、宮内省や陸軍などの官憲による栄典を一切拒否した。

時々、森鴎外は権力組織の中にあって地位に執着した人、なんて言う方々がいてびっくりする。

まぁ、どこからそういう説が出てくるのかおおよそ想像はつくが、鷗外の生涯をいろいろ読み知っていると、反論するのもばからしいくらいの大きな誤解だ。

鷗外研究で、死に臨んだ彼が、強固に官憲威力の容喙を拒んだということは一つのテーマである。

彼は一人の私人としてあの世に旅立った。

 

鷗外のお墓に詣でることは、ファンにとってこれは儀式に近い。

時間あいたからちょいと行ってくるわってレベルの話じゃないのだ。

この日も行こうか行くまいか、少しく迷った。

時間的に可能であっても精神的にどうかということであり、 行くからにはそれなりの心構えと準備が必要とかいう、非常に複雑なファン心理である(笑)。

そして、鷗外のお墓はたくさんの文献で写真付きで紹介されているので、まだ一度も行ったことがないのにすっかり馴染みの場所になっているというのも、今まで足が向かなかった理由の一つだ。

 

ともかくこの日は、本格的なお墓参りの為のリサーチ兼リハーサルってことで自分を納得させて、”決行”に及んだわけだった。

 

***Part2に続く***

 

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2018年

7月

29日

市場の思い出

小さい頃、母のお使いで近くの市場によく買い物に行った。

 

市場の一番奥にあるお肉屋さんで犬にあげる大きな肉付きの骨、その斜め前の魚屋さんで猫にあげる魚のアラを、それぞれお店に頼んで分けてもらう。

我が家には、ニッパという白い毛がふさふさした中くらいのスピッツ犬と雑種の猫が数匹いて、私は、隙あらばニッパの尻尾を引っ張ってキャンと啼かせてしょっちゅう叱られていた。


その罪滅ぼしというほどの事ではないが、骨とアラは子供にはけっこう重かったけれど、文句も言わず買い物カゴをぶらさげて市場に行った。

 

お肉屋さんのおじさん、魚屋さんのおばさんは、人間用の肉や魚とは別に手際よく新聞紙に包んでくれる。

( あの頃は新聞紙がめっぽう重宝した。どこの家でもだいたい全国紙と地元紙の2紙をとっていて、それも朝と夕方の配達だったからどんどん溜まった。我が家では主に子猫たちが、破いたり敷いたりかぶったり乗ったりと、おおいに活用していた(笑)。)

 

魚屋さんの店内には、天井から小さな青いザルがゴム紐でぶら下がっていて、中には小銭やお札が入っていた。

おばさんが手を入れるとそのザルがゆらゆら上下に揺れるのが面白くて、お釣りをもらうまで目が離せなかった。

普通の子は、冷凍ケースに並べられた魚やイカなんかを面白いと思うのだろうが、、。

 

市場の玄関口近くにはお菓子やさんがあって、大きな木の棚が上向きに平置きで置いてあった。

一つ一つの棚の口には取っ手付きのガラスの蓋がついていて、中のお菓子がよく見える。

お菓子は量り売りで、「この豆菓子を200g。」と言うと、お店の人がガラスの蓋を開けてステンレスの大きなスプーンのようなものでお菓子をざくっとすくい、台秤の上に置いたビニール袋の中に入れてくれる。

だいたい200gというところでビニール袋の口を閉じる、その手さばきが手品のように鮮やかなので、私はじっと見ながらちょっと得をしたような気持ちになるのだ。

母は間食をあまりしない人だったから、何か特別な時しかお菓子やさんに行かなかった。

 

他に八百屋さんや金物屋さんもあったと思うが、よく覚えていない。

市場の真ん中をセメントで固めた通路が通っていて、低い天井には蛍光灯がチカチカしていた。

私が行く時はいつもお客さんがまばらで、静かだったような気がする。

 

ある日の夕方、日が落ちて暗くなり始めた市場の周りが騒がしかった。

市場が面しているバス通りで交通事故があって、買い物帰りのおばあさんが亡くなったらしい。市場のお店の人たちがいろいろ話しているのが聞こえてきた。

通りには、おばあさんがかごに入れていた野菜などがまだ散らばっていて、救急車が去った後の緊張感がかすかに残っていた。

交通事故が自分の身の回りで起きるなんて想像もできなかったから、ただただ恐ろしかった。

今思えば、おばあさんは怪我ですんだのかもしれない。でも、その時は通りを見ることさえ恐ろしかった。

 

その後、市場のすぐ近くに大型スーパーが出来た。

スーパーは、明るくて綺麗でなんでも揃っていた。

でも、肉付きの大きな骨や魚のアラは頼んで分けてもらえたんだろうか?

お菓子の量り売りはしてくれたんだろうか?

 

しばらくして、市場がなくなったと母から聞いた。

 

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2018年

7月

19日

暑過ぎる....。

去年の夏は、なかなか快適に過ごした。

 

たまたま見たインターネットの健康情報の影響で、ほとんど冷房を使わずに外の風と扇風機、氷を入れたIce Bagで乗り切った。

冷たい飲み物もさほど飲まなかったし、夏なんだから暑いのは当たり前 ^ ^v とか言うくらいの気力があった。

まぁ外出すれば、過度の冷房に長時間さらされる訳だが、それでも”自律的な体温調節”--自然に汗をかく機会を増やすことでだいぶ体質改善できたなぁ、なんて悦に入っていた。

 

しかし、、。今年はとんでもない、、。

天気予報の日本地図が連日真っ赤で、危険とか厳重警戒とか災害並みの注意報ばかりで外に出るのも恐ろしい。

体質改善より命が大事だと、朝から冷房を入れっぱなしだ。

去年の頑張りがまるまる無駄になってがっかりだが、この暑さはもう異常に思える。

 


”気温40度超え”なんてニュースを見ると、日本はこの先、亜熱帯の国になるんじゃなかろうか、、ぶるっと背筋が寒くなった。

<猛暑=ビールが美味い・アイスクリームが売れる>ぐらいに思っていた昔がほんと懐かしい。

 

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2018年

7月

17日

オウム事件

7/6の死刑執行のニュースを見た時、「あぁ、とうとう、、。」と思った。

「遅過ぎた」「野蛮な制度はやめろ」 国内外からいろいろな意見が聞こえてくる。

 

ずっと昔、ある英会話学習の関連雑誌の記事で、アメリカの普通の女子高校生がこう言っているのを読んで驚いたのを思い出した。

「私は、社会のいろいろな問題ー死刑制度やフェミニズム、政治的立場( 共和党・民主党どちらを支持するか )などについて、いつ誰に聞かれても自分の意見を明確に言えるようにしています。」

 

日本ではとても想像できない事だったので、ちょっとショックを受けた。

彼女は特別に優秀な高校生という訳でもなく、たぶんアメリカでは、学生の頃からこうした社会的な問題を提示される機会が多いのだろうな、と思った。

 

当時の日本で、フェミニズムは”なんのこっちゃ?”だったし、自由民主党以外の政権は実現不可能に思われた。

ただ死刑制度については、世界で廃止傾向にある死刑を行う国の国民として、賛成なり反対なりはっきりさせておこうと思った。

アメリカの女子高生に負けないぞってのもあったし....。

けっこう時間をかけて、ああだこうだいろいろ悩んでみた。

 

結論から言えば、私は死刑制度に賛成した。

理由については、例によってまたもの凄く長くなるので別の機会に、、。

 

ただ、今回のニュースに関連してある事を考えた。それは死刑制度とは関係ないことなのだが。

 

今現在、明らかになっているオウム教団の犯罪。

1990年頃から兵器や毒ガスを作って、殺人、国家転覆まで企てていたのに、殆どの人はまるで危機感がなかった。

マスコミなぞは、事態が深刻になるまで面白おかしく報道していた。

 

必死に警鐘を鳴らしていた人たちはいたし、政権中枢ではなんとか法の網をかけようとしていたはずだ。

でも、それを阻止しようとする力が確実にあり、多くの無関心・楽観主義が目の前の事実を見過ごした。

みんな、まさかそんな事が、、とまるで現実でないように思い、私はワイドショーのコメンテーターたちが言う事を、ふ〜んそうなんだと思って聞いていた。

 

当時と比べて、私たちの無関心や楽観主義はあんまり変わっていないと思う。

何が変わったかと言えば、マスコミ--朝日新聞やTVなどのオールドメディアが無残なほどに信頼を失った事、SNSやインターネットが普及した事。

地下鉄サリン事件の時とは比べものにならないほどの大量の情報が、ネット空間に真偽錯綜するようになった。

ちょっと努力して勉強すれば、事実を客観的に知ることができる。

TVのニュースや一部の新聞が、いかに意図的に歪めて伝えているかも知ることができる。

 

無関心でいることで確実に社会の流れから取り残されていくことを、少しづつ、普通の人でも気付き始めていて、さらにこれから日本の情報伝達環境は劇的に変わろうとしている。

技術的にも法律的にも、この流れはもう止められない。

口を開けて情報を待っている時代は終わったのだと思う。

 

オウム事件が区切りを迎えたことで、そんな事を考えた。

そして、1995年3月20日の朝、部屋のテーブルの上に置かれた白いマグカップから立ち上るコーヒーの香り、TVで叫ぶリポーターの声、何が起きたか理解できずただびっくりしてTVの画面を見つめていた自分の姿を思い出した。

 

あれから、23年もたったのだ、、。

 

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2018年

6月

28日

路線図

某月某日@某ライブハウス。ライブ後にベーシストさんと雑談。(編集済み)

「田崎さんはどちらにお住まいですか?」

「私は西武新宿線の◯◯です。あなたはどちら?」

「僕は小田急線の◯◯です。」

 

以下、編集なし。

「ふ〜ん....。小田急線かぁ。小田急と言えば、祖師ケ谷大蔵と経堂ってなんかもの凄〜く良いよねぇ。」

「いやいや、祖師ケ谷大蔵とか経堂って、世田谷区じゃないすか。」

「最近、京急線に乗るんだけどさぁ、金沢文庫って駅があるの知ってる?金沢八景もあるんだよ。青物横丁ってのも良いよねぇ。」

「はぁ?( ちょっと何言ってるかわかんね〜。)」

 

意味不明な会話になっているが、この時、私がやや興奮気味に話しているのは、沿線情報とか駅の利便性とか家賃相場とか全く関係なく、ただ駅の名前についてである。

私は、東京の私鉄/地下鉄の駅の名前が好きなのだ。

 

電車に乗ると、なんとなく出入り口の上部に掲げてある路線図を眺める。

整然と並ぶ駅名を順番に見ながらふ〜ん、へぇ〜とやっていると、中に一つ二つ「ん?」てのがある。

あとでwikipediaで駅名や地名の由来を調べてみると、とても由緒ある名前だったりしてほぉ〜と感動する。

 

因みに、祖師ケ谷大蔵の大蔵は、律令制度における官庁の名称から来ている。

延暦期(782~806年・桓武天皇)に、武蔵国守兼大蔵卿・石川豊人が住んでいた土地ということらしい。

祖師ケ谷の祖師は、もちろんお祖師様-日蓮上人である。

祖師ケ谷と大蔵に挟まれるような土地に駅が作られたので、祖師ケ谷大蔵の名前がついた。

我が西武新宿線の上石神井や鷺ノ宮も、調べてみると情緒あふれる歴史があってなかなか良い。

 

山手線や中央線の駅名はあまりに慣れてしまって何も考えなくなっているが、私鉄/地下鉄駅は、それに比べて馴染みのない駅が多くて新鮮だったりする。

 

今年3月から横浜のお店で演奏することになって、京急線に初めて乗った時は我ながらドキドキして心が躍った(笑)。

金沢文庫、金沢八景、青物横丁、、。

八丁畷(はっちょうなわて)や生麦も、相当グッとくる。

生麦はあの有名な「生麦事件」の現場だ。地名の由来は徳川秀忠の時代に遡る。

 

昔の日本人の、名前についてのセンスは驚くほどだ。

いや、当時は普通につけた名前かもしれない。

でも何百年にもわたってちゃんと残って、国や庶民の歴史を伝えてくれている。そう考えてみると、漢字の偉大さにも思いが及ぶ。

 

しかし、電車に乗って路線図をずっと見ながらふ〜ん、へぇ〜とか言ってる人ってかなり怪しい。それも時々ふっと微笑んだりするし....(笑)。

冒頭のベーシストさん。田崎→変なヤツになってないといいけど、、。

 

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2018年

6月

16日

孤独について

毎朝、インターネットでニュースをチェックする。

「日経デジタル」はわりと好きで、いくつかお気に入りのコラムがある。

今朝読んだ『「孤独という病」は伝染し、職場を壊す』(by河合薫氏)という記事が興味深かった。

 

今、”孤独”が注目されているのだそうだ。

世界では、1980年代に孤独研究が学会で関心を集め始めて以来、孤独が社会に与える影響が様々な面から調査・分析されている。

WHO(世界保健機構)ヨーロッパ事務局は、社会や組織に及ぼすリスクとして孤独感に取り組んでいるし、英国では今年1月、内閣に”孤独担当大臣”が誕生したそうだ。

 

「いったん孤独の罠にはまると底なし沼のように孤独という病いに引き込まれる」とする米大学の研究チームの論文が紹介されているが、記事を読みながら少々混乱した。

 

 


私は一人の時間が好きで、孤独を愛する、とか孤独を楽しむといったふうに考えていたので、孤独が病いと言われて、え?と思ったのだ。(『孤独のグルメ』大好きだし、、。)

でも、”孤独”を”孤立”と置き換えてみて、なるほど〜と納得した。

 

友だちや仲間、相談相手がいない状態を想像してみたら、心が病んで当然のような気がした。

不安感や不信感を抱きながら生きていくのは、きっともの凄く辛いし苦しいし楽しくない。

さらに記事では、SNSの発達についても言及していた。

いわゆる”リア充”に嫉妬するってやつだ。孤独がゆえに、ネガティブな感情がいやが上にも高まる。

 

朝からどんよりした気分になったが、最近多くなっている酷い事件の根底に”孤立”がもしかしてあるんじゃないかと思ったら、ホラー並みに背筋がぞっとした。

だって、日本国中に孤立している人がたくさんいる。( 日本は「孤独大国」で、OECD加盟国で社会的孤立の割合がトップらしい。)

そして、サポートの手が及んでいない。そういうのは、個人の問題とされているから。

 

孤独が病いであるなら、放っておいていい問題じゃない。

その人たちが精神的に追い詰められる前に、信頼できる人間関係に引き入れる工夫( おせっかいでも無理強いでも )が必要なのかもしれない。

英国政府は、既に方針を決めて予算を投入している。

 

これは本当に難しい問題だと思う。

孤立する人は自分から周りを拒絶しているケースもあって、その場合どうやったら暖かい信頼関係が築けるんだろう?

個人でなんとかできる限度を超えてしまっているんじゃないだろうか。

 

どうして世界で”孤独”が注目されているのか、少しわかったような気がした。

朝っぱらから、ちょっと重過ぎな話題で疲れた、、。

 

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2018年

6月

11日

ニュース

今朝、インターネットで見つけた写真。

現在海外メディアがこぞって取り上げているのだそうだ。

 

今月8日、カナダのシャルルボアで開幕した主要7カ国首脳会議(G7サミット)で、首脳宣言の採択に向けて最後の詰めの議論を交わす様子を撮影したもので、ネットのコメント欄には「歴史的な一枚になる」といった声が世界中から寄せられていた。

 

『サミットでは、安倍晋三首相が昨年に続いて北朝鮮問題などで議論を主導した。米国と欧州・カナダが激しく対立する気候変動問題や貿易問題でも「裁定役」を務めるなど、存在感を発揮している。(6/10、産経ニュース・田北真樹子)』

 

”トランプ氏が日本を除く5カ国の反発を受けるたびに、困って振り向く先は安倍首相だった”そうで、「シンゾーの言うことに従う」「シンゾーはこれについてはどう思うか?」が繰り返されたらしい。

 

この写真は、現在の世界情勢をシンプルに表しているし( 強固な日米同盟/アメリカとEUの対立 )、日本が調停役のポジションにいるのもよく分かる。

戦後の日本外交で、これほど日本らしい外交ができた事はなかったんじゃないだろうか?

 

「この写真は教科書に載るぞ!」ってコメントが面白かった。

これから北朝鮮の核問題も大詰めを迎えるし、ますます国際ニュースから目が離せない。

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2018年

6月

10日

Mac miniが、、。

朝、起き抜けにMacを操作していてとんでもないことになってしまった。

眠気もふっとんで青くなった。

あのスイッチを押さなければ....、と悔やんでみてもしようがない。

システムの再インストールが必要になって、瀕死のMac miniを抱えて新宿まで出掛けた。

Apple修理店のお兄さんは、「中のデータは全て消去されます。」なんてもの凄い残酷なことをにこやかに言う。

私も内心の激しい動揺を隠して「はい、分かりました。」とにっこり答えた。

大事な情報はバックアップしてあったが、このブログの為のメモや料理のレシピなんかが消えてしまう、、。  

普段それほど大事に思っていないのに、いざそれが消えるとなると、あり得ないくらいの悲劇に感じる。

 

Macをお店に預けて、とぼとぼ家に帰ってきた。

 

Macの無い生活がいかに過酷なものになるか、あれこれ考えたら絶望感がわいてきた。

家にTVが無いので、ニュースもドラマも映画も全てMacだ。

家計簿もブログも写真管理も、ずっとMacでやってきた。スマホの画面は小さいのでストレスが大きい。

お店のお兄さんは一週間から10日と言っていたが、そんなに長い間、辛抱できるんだろうか、、?

 

思ったより早く、Mac miniが元気になって戻ってきた。

外見は以前のmini子だが、中身は全く別人のmini子だ。

ソフトの再インストールやらいろいろやっているうちに、便利なアプリやサイトをいくつか見つけて、新mini子は見違えるように使い勝手の良い子になった。

細かい作業に時間も手間もめちゃめちゃ掛かったが。

 

う〜む、こういうのを『人間万事塞翁が馬』というのかもしれない。『雨降って地固まる』かな?

それにしても、メモやレシピは惜しかった。残念....。

 

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2018年

5月

27日

歩く★

先日、暇つぶしにインターネットを見ていて、「スマホを持って歩くだけでプレゼントが当たるウォーキングアプリ。」というのを見つけた。

早速、ダウンロードして使ってみるとなかなか楽しい。

 

目標歩数を達成するとか毎日ログインするとか、いろいろなミッションがあるのだが、クリアするとパ〜ンとキラキラ画面が現れて、可愛いキャラクターがやったぁ!みたいにチアアップしてくれる。

ポイントもどんどん貯まっていくので、お得感もある。

 

私みたいに出不精だと、歩くと健康に良いと分かってはいても、用もないのに外出するのはけっこう面倒くさい。

オタク気質の人間にとって部屋の中で楽しめる事はたくさんあるので、何も外に行かなくたって、、となってしまう。

仕事の日以外、運動量はほぼゼロだ。

 

ところが、歩いて目標をクリアするとわ〜っ(キラキラ!)と褒めてくれて、その上ご褒美(ポイント!)までくれるとなると、ま、歩くのも楽しいよね、健康的だし、、となる。

雨の日でも散歩に出るようになったのは、我ながら驚いた。

 

やっぱモチベーションって必要です、、。

さて、いつまで続くのか?

 

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2018年

5月

18日

越後線で。

5月7日、新潟市で起きた小学2年生女の子の殺害事件。

陰惨な事件を報じる記事に衝撃を受けたが、その現場というのが、このブログで度々登場している越後線だ。

 

越後線にはとても思い入れがある。

 

高校生時代には毎日乗っていたし、今でも新潟に帰れば利用する。

バスより早いし、料金は半分だ。( 郊外のバス代は途轍もなく高い!)

実家からバス停は2分、駅まで8分で、余裕がない時以外はたいがい越後線に乗る。

 

越後線は単線で、他の列車とすれ違うことなくゴトゴトのんびり走る。

この”我が道を行く"感がすごく好きだ。

線路の脇の草地を隔てて住宅街がずっと続き、唯一のハイライトは、川幅約200メートルの信濃川に架かる鉄橋を渡る時だ。

眼下に見る川岸の桜並木は見事だし、遠く市街に広がるビル群の中に聳え立つタワーや県庁舎、コンベンションセンターなどが一望できる。

夏には広い川面に船々が浮かび、夕暮れ時には彼方の海に沈む太陽の夕焼けに思わず見とれてしまう。

十秒くらいだろうか、車窓から眺める風景は格別だ。

この愛すべき越後線の唯一の欠点は、強風ですぐ運行停止になることだ。

朝起きて、窓の外の風や雪などで運行停止の危険を察知した越後線利用者たちは、早速、携帯をチェックし情報を交換する。

いよいよ運行停止決定となると、ツイッターには呪詛の声が溢れるのだが、殆どの人はもう諦めている。

なるたけその回数が少ない事を祈るばかりだ。( たまに”そよ風で運休”とか揶揄されている....。)

 

そんな我が越後線で非道な殺人事件が起き、その上、現場はうちのマジ隣りの駅だった!

もうね、、このもやもや感、怒り、悲しみ、、。

 

興味本位で現場報道をしているTV局があると聞く。

うちにテレビがなくて、本当に良かった。

そんなレベルの地上波放送は、たまたまであっても絶対に目にしたくない。

まったく、ほんとうに、とんでもなく酷い事件だ。

ただただ、女の子がかわいそうで虚しい気持ちになる。どうしてこんな事が起きたんだろう?

 

心からご冥福をお祈りします。天国できっと幸せでありますように、、。

そして、悲しみに沈むご家族や周りの方々に、少しでも穏やかな生活がどうぞ戻りますように。

 

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2018年

5月

10日

愛しの西武新宿線

東京にいると、「便利な街ランキング」とか「住みたい街ランキング」とか街に関する人気投票をいたるところで目にする。

引っ越ししようかなぁ、、って時には、まずチェックする人が多い。

それより利用頻度は落ちるが、「沿線ランキング」というのもある。

1〜3位は山手線、東急東横線、中央線が常連で、我が「西武新宿線」は10位圏外とまったく人気がない。

以前、中央線/国立に14年ほど住んでいたので、人気沿線に漂うある種のメジャー感が西武線に全く無いのはじんわり分かる。

 

国立から引っ越してきた当初、平日昼間の駅ホームを歩きながら、あまりに人がいなくてびっくりした。

東京はどこも人が多過ぎて、なるたけ人が少ない時間・場所を探す習性になっているが、「西武新宿線」はその点かなり理想的だ。

中央線・最終電車の、過酷なぎゅうぎゅう詰めを経験せずにすむのも嬉しかった。(ライブが終わって帰ると、最終電車になることが多い....。)

駅前は、お洒落なカフェこそないが地元商店街がこじんまりと充実している。

大きなスーパーも複数あるが、商店街のお肉屋さん、パン屋さん、八百屋さん巡りをするのが好きだ。

小さい頃、母のお手伝いで家の近くの市場に買い物に行ったのを思い出して、今は大人になった分、店主のおじさんの粋な江戸っ子ぶりを面白がったり、おばさんとなんてことない会話が楽しめたりする。

 

「西武新宿線」と「西武池袋線」は西武鉄道の二枚看板で、住民の間には、ふだん表には出ないがなかなか複雑な感情がある。

池袋線住民は「新宿線は文化がない。」と言い、新宿線住民は「池袋線の駅は古くて汚い。」と言う。

マイナー同士、仲良くケンカする微妙なライバル関係(笑)にあるのだ。

 

たまたまつい先日、池袋線に乗る機会があって石神井公園駅に行ったのだが、駅に着いて愕然とした。

「なんじゃこれは〜!」思わず小さな声で呟いた。

数年前に来た時には、鄙びて古臭い、正しい池袋線らしい駅(笑)だったのに、私の知らない間に急激に開発が進んだらしく、都会的で美しい、池袋線らしからぬ駅に変貌していた。

「聞いてないよ〜!」

 

そう言えば去年、ネットで『「池袋線ばっかり」西武新宿線株主の不満炸裂』という記事があった。

”西武HD株主総会で、池袋線が重点的に改善されている事に対して新宿線住民が抗議の声をあげた”とあったのは、まさにこの事だったのだ。

 

新宿線完敗じゃん、、としおれて帰ってきた。

まぁ、新宿線派の意見を経営幹部がもっともだと聞いてくれたら、近いうちに我が駅もむっちゃくちゃお洒落になる可能性もある。

駅が近代的な商業ビルになって、ブランドのブティックとか有名カフェが営業するかもしれない!

 

……しかしそもそも、人が少ないマイナー感が気に入っていながら、あっちばっかり開発して、、とめそめそ傷付くのも変な話だ。

大好きな商店街がなくなってしまってもいいのか。有名カフェ目当てに、人がいっぱい来ちゃったらどうするんだ。

 

どうも巷の人気ランキングの影響で、知らず識らず勝ち組・負け組の悪しき価値観に毒されている、、。

思うに、街の価値は、便利さとか洗練度とかいっぱいお店があるとか勝った負けたとかじゃない。

住む人が自分の街が好きで、居心地が良いと感じることなんだ。

私は、急行が止まらないほんわか緩いこの街を愛している。

 

頑張れ、西武新宿線!

お洒落な池袋線なんかに負けるな〜! ....あれ?

 

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2018年

4月

30日

池袋駅で。

ほんの数年間だが、地下鉄有楽町線/氷川台駅の近くに住んだことがある。

JR線と有楽町線の乗り換えが池袋駅なので、買い物も西武・東武デパート、東急ハンズでしていた。

東口に西武、西口に東武ってのが面白かったし、東急ハンズはちょっと駅から歩くけれど、渋谷まで行かなくてすむので便利だった。

 


池袋駅は、新宿駅や渋谷駅みたいに大きくて、いろんな人がむちゃくちゃいっぱいいて、活気があるけどどこか妖しげな雰囲気が漂い、超能力者に言わせると「近寄ると危ない場所」であり、当時は若かった私(笑)にとって、少なからず警戒心を持たせる場所だった。

超能力者云々の話はまた別で書くとして、警戒心というのは、第六感・女の直感とでもいうのだろうか、油断していると何かトラブルに巻き込まれるかもしれない、それに備える危険アンテナが自動的に作動し始めるという感じだ。

 

深夜、山手線の車内には酔っ払った人たちがたくさんいる。

池袋駅のホームで、そういう人たちが電車から降りて喧嘩を始めるのを何回か見た。

最初に見た時は、一方的にボコボコに殴られている人を周りが助けようとした結果、どういう訳か大乱闘になっていた。

日頃のストレスが溜まっているのか、スーツを着た大人たちが殴り合いの喧嘩をする姿には鬼気迫るものがあった。

 

終電を逃すと、氷川台までタクシーで帰ることになる。

雨がしとしと降る肌寒い深夜、駅前のタクシー乗り場で並んでいたら、乗用車がスーッと私の前に止まった。

運転席の窓が開いて、人の良さそうなおじさんが親しげに、「どこまで行くの?寒いから乗りなさい。送ってあげるから。」と言う。

優しそうな笑顔が、今思い出してもぞっとする。

人を疑うことを知らない若い女性たちを騙そうとする悪人の顔だった。

うかうかと乗ってしまったらどうなっていたんだろう。

 

駅構内には、飲食店や雑貨屋さん、さまざまなお店がある。

歩いていたら、ある衣料品店の前に大きなキャリーバッグがぽんと置いてあった。バッグの中から荷物がはみ出ているので、それが商品でないのは一目瞭然だ。

でも、持ち主はそばにいないので、とりあえずそこに置いたのだろう。

これだけ人の往来が激しい場所にとりあえず置いたというのがそもそも謎で、私は他人事ながら心配になった。だって、誰でも持っていける状況だったから。

そして、こんな大胆なことをやってのける人ってどんな人だろうと興味がわいたので、その衣料品店に入ってみた( 暇過ぎ....だよねw )。

店内は思ったより広いスペースだったが、商品が効率よくたくさん置かれているので、お客さんたちは互いに気遣いしながらすれ違っていて、とても店頭におかれたキャリーバッグなど見ることはできない。

商品をプラプラ見ているうちに、そうだ、欲しいジーンズがあったんだと思い出して、すっかり買い物に夢中になってしまった、、。

お店から出た時に偶然、例のキャリーバッグを持って歩いて行く女性の後ろ姿を見た。若いごく普通の人だった。

私がお店に入って、20分後くらいだと思う。

日本がとてつもなく安全な国なのか、日本人が他人を無条件に信じる無垢の国民なのか。

私は、なんだかそら恐ろしい感じがした。

 

今でも時々思い出す、不思議な出来事がある。

 

有楽町線/池袋駅・地下のホーム。

周りにはほとんど人がいなくて、私は一人、何も考えずに電車を待っていた。

何も考えずというよりは、その当時、あまりに辛い日々が続いていてほとんど何も考えられない状態だった。

もう死んじゃいたいなぁ、、なんてふっと思った。それほど苦しくて心がぼろぼろだった。

その時、いきなり胸の下の方からどうっと何かが突き上げてきて、思わず顎を上げた。息もできないくらいの勢いでそれは胸の中、喉から頭へと突き抜けていった。

何秒間か、口をパクパクして上を向いたまま、身動き出来なかった。

体の奥から頭の先まで、何かに満たされていっぱいになったような感覚だった。

何が起きたのかまったく分からなかったし、あまりに突然だった。

敢えて言葉で表現するなら、それは”幸福感”ーそれまでに経験したことのない、自分で制御できないすごい力で湧き上がってきて勢い余ってあふれ出したような”幸福感”だった。

 

普通、幸福感というのはじわじわ感じるものだと思うのだが、あれはまさに幸福爆弾がスローモーションで炸裂したようだった。宝くじが数十億円当たったとかの次元じゃない、、。

人生最悪の苦境のさなかに、何故あんなことが起きたんだろうか?

 

池袋は、人の理性を狂わせ、摩訶不思議な超常現象が起こる街なのかもしれない。

土地が持つ力みたいなものがあるとするなら、まさにそんな神秘なエネルギーを持つ場所だ。

 


そういえば、江戸時代の怪談に『池袋の女』というのがある。

武家屋敷などで、池袋出身の女中を雇うといろいろな怪現象が起こる、という俗信だ。

江戸時代の文献に、いくつか怪異の実例が書かれているそうだ。

 

オカルト・ホラー好きの私にとって、池袋はちょっと怖い街、大げさに言うなら畏怖の念を抱かせる場所である。

 

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2018年

4月

12日

東京駅で。

あれは、私がまだシンセサイザーを弾いていた頃の出来事だ。

ツアーの仕事でどこか地方から東京へ帰って来て、東京駅の構内を足早に歩いていた。

大きな荷物を肩にかけているので、早く家に帰ってゆっくりしたかった。

 

前方に丸の内中央口が見えて、何やらものものしい雰囲気になっているのに気がついた。

警察官や警備員と思われる人たちがたくさんいて、入り口から通路の両側にロープを張って、何ごとだろうと集まってきた人々を整理している。

こういう光景はTVのワイドショーなんかで見ていたので、きっと大物タレントが来るのだ、と直感してワクワクした。

外国人アーティストだといいなぁ、これだけ警備がすごいのだから世界的スターだよなぁ、なんてミーハーな事を考えながら、人だかりの後ろで首を伸ばした。

たまたま私の隣には音楽関係らしいグループがいて、私と同じような事を考えていたに違いない。

当時としてはお約束の、長髪・革ジャン・鎖系でキメたロッカーたちだったが、おとなしく並んでスターが現れるのを待っていた。

 

しばらくすると、入り口付近一帯がざわざわして、人影がふたり見えた。

わ、誰だ?と思って目をこらすと、なんとそれは天皇皇后両陛下であった。

 

予想外のことに、私はびっくりした。本当に驚いた。

ゆっくり歩かれるお二人を目で追いながら、何故だかふっと涙がでた。本当にどうしてかわからないが、涙が自然とでた。

この時の気持ちはどう表現していいか分からない。

 

今となれば、「あなたは保守の人だから、天皇陛下が大好きなんでしょ。」と友人にからかわれるのだろうが、当時は保守でもなんでもなかった。

普通に南京事件を丸々信じていたし、全て日本が悪いという情報ばかりの中でずっと来て、この国も歴史も政治も、もうほとんどどうでもいいと思っていたのだ。

だから、天皇という存在について、考えたことも思いを巡らすことさえなかった。

 

あふれた涙に自分でもとまどっていると、隣にいたロッカーの青年が、「俺、感動した〜!」と興奮して嬉しげに仲間たちと話していた。

その言葉に、「そっかぁ、わたし、感動したんだ。」と納得したのを覚えている。

 

あの時、青年たちも私も、大物アーティストをきっと期待していたのだ。

そしてその期待は裏切られた。

がっかりして当然だった。

国を愛するなんてことをついぞ考えたことのない若者が、天皇皇后両陛下に接して、なぜあれほどに感動したのだろう。びっくりした、で終わらなかったんだろう。

 

今ふりかえってみると、これは日本人が持つ”集合的無意識”みたいなものじゃないかと思うのだ。

 

普段は表に出てこない。

そんな気持ちに気付きもしなければ、そもそもあるはずがないと思っている。

でも、いざ直面した瞬間に湧き上がってくる気持ち。

直面したことのない人は、まさかと一笑に付すのかもしれない。ばかばかしいと思うのかもしれない。

 

2000年以上続く皇室の存在について、特に戦後は否定する人たちも少なくない。

でも歴史上、ことに当たって日本人が団結する時には、常に天皇という拠り所があったという事は紛れもない事実で、これは権威的な強制でもなんでもなく、ただ民族の心の中心に天皇がいたからじゃないだろうか。

昭和史においては、教育に依るところも大きいのだろうが、、。

 

 


来年4月30日、天皇陛下が退位される。

生前退位というのは、大日本帝国憲法、現日本国憲法でも認められていないのだそうだ。

でも、80歳を過ぎてなお公務に忙しくされるお姿を見て、多くの国民はただ素直に、”どうかゆっくりお休み下さい”と思っていると思う。

歴史的な行事がどのように執り行われるのか、新年号は何になるのか。

 

国内・国外で問題山積、2020年にはオリンピックもあって、日本は今、本当に大変だ。

こんな時だからこそ、これから一年、日本と皇室について、日本人が持つ”集合的無意識”について考えてみるのもいいかなぁ、、なんて思っている。

 

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2018年

3月

31日

5年前のこと

2013年1月4日の朝。

新潟に帰省していて、そろそろ東京に戻る準備をしかけた私の目の前で、父がいきなりバタンと倒れた。脳梗塞だった。

それから1年半の間に、父が亡くなり、後を追うように母が亡くなった。

私は住まいを東京から新潟へ、そしてまた東京へと移した。

 

その頃の事は記憶が曖昧で、断片的な映像が脳裏に浮かんだり、誰かの言葉を思い出すくらいで、父と母以外のことはほぼ空白に近い。

まるで別次元の世界に行っていた感すらある。

 

平穏な気持ちで普通に生活する、それがどんなに幸せな事か、最近になってようやく実感するようになった。

元の自分に戻るまで、まる5年かかったという事だ。

 

このブログの為の材料というか備忘録みたいな感じで、その時々に気になった事や思った事などをPCにメモしているのだが、今朝、ブログを書こうとそれに目を通していて、ある文章を見つけた。

介護のために東京から新潟に引っ越した時の気持ちを書いたものだ。

 

『その時の私は、父や母の事が心配で泣きたくなるほどだったし、自分の音楽をどうやってやり続けていったらいいかも分からなかった。

経済的な事や介護の事、新潟でのこれからの生活が殆どイメージできないまま、やらなければならない事は山のようにあって、毎日クタクタになって寝るだけの日々の中で先のことは全く考えられなかった。

ただ強く思っていたのは、東京で音楽をやり続けたいという事だった。

私は、東京で育ててもらった。

仲間や先輩、お客さんや尊敬するミュージシャンたちから暖かい励ましやアドバイス、思わず歯を食いしばるほどの叱責や厳しく欠点を指摘する言葉をもらい、褒めてもらったり上手くいかなくて恥ずかしい思いをし、でも何とかもっとちゃんと弾きたいと思ってたくさん練習した。

そういう記憶は過去のものではなくて、』

 

メモはここで終わっているのだが、これを書いた時の事は覚えていない。

でも、読んでちょっと切なくなった。

東京を離れなければならない、音楽を続けられるんだろうか、大好きな父を失うかもしれない、母との生活・介護はどうなるんだろう、、。

心がピリピリして、一人でぐるぐる空回りしている姿が見えた。

 

5年経った今、こうしてまた東京にいる事がちょっと奇跡のように思える。

そして、5年という時間をかけてゆっくり心が回復したのだと感じる。

 

朝起きて、朝食の前に、父と母の位牌に手を合わせる。

ほとんどの人は信じないだろうが、父はだいたい毎朝、母は気が向いたら時々(笑)、私に声をかけてくれる。

悩んでいる時にはアドバイスをしてくれる。

 

今日一日、元気で”ピアノを弾く、世界で何が起きているかニュースを見る、国会で野党がやっていることに怒る、仕事先で会ういろんな人たちとお喋りする、商店街のお店のおじさんやおばさん・若者と天気について語る、時々映画を見て泣く(怖がる) 、時々友だちと飲みに行って騒ぐ、芥川龍之介を読む、曲を作る、ブログを書く、、”。

 


何もない日常が有難いんだなぁ....。

いろんなことに感謝したい気持ちになった。

 

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2018年

3月

23日

人生100年

最近、いろいろな所で「人生100年時代」という言葉を聞く。

 

ネットで調べてみたら、”英国ロンドンビジネススクール教授のリンダ•グラットン氏が長寿時代の生き方を説いた著書『LIFE SHIFT』で提言した言葉”と解説されていた。

氏によると、2107年には主な先進国では半数以上が100歳よりも長生きする。

必然的に、個々人が70歳を超えて働く事を想定しなければいけないらしい。

日本政府も「人生100年時代構想会議」を2017年9月に開催し、有識者議員としてグラットン氏を招いて意見を聞いたそうだ。

 

2107年までには随分と時間があるから、今からそんなに焦らなくても....と思うのだが、私の周りでは人生設計が狂ったと慌てる人たちもいる。


そういえば、毎朝見ているネットのニュース記事で、「あなたの老後は大丈夫ですか?」「老後に必要な貯蓄について」みたいな特集が、最近やたらと目につくなぁ、と思っていた。

なるほど、長く生きればお金がもっと必要になるのだ。

 

もし寿命が100歳まで伸びるとして、それは幸せなことなんだろうか?

良い機会だから考えてみた。

 

まず大前提は、お金に困らなくて健康であること。

これについては、人間、生きていれば何が起こるか分からない。どんなに考えて気をつけていても、ひどい災難に遭うかもしれない。

それを心配しても疲れるだけだから、まずは大前提がクリアされるとして、100歳の自分を想像してみた。( お金と健康は、若いうちから頑張るしかないのだ★)

 

楽器を演奏する仕事に携わる人は、殆んどの人が、死ぬまで演奏したい、誰かに聞いてもらいたいと思っているんじゃないだろうか。

それほど音楽は魅力的で、魔法のように人を虜にする。

年をとってもまだピアノが弾けるなら、きっとものすごく幸せだろうなぁ、と思う。

Jazzは楽譜がいらないから、視力が落ちても指さえ動けば大丈夫だし、片手だけだっていいのだ。

 

友だちとお喋りしたり、ご飯を食べたりするのも好きだ。

願わくば、大好きな友人たちも長生きしてほしい。

同じ世代の友だちというのは得難い宝物だ。

でももし、一人ぼっちになったら、、。

 

ん〜、この”一人ぼっち”という言葉。

普通ならそこに”寂しさ”を感じるのだろうが、私は一人っ子だったせいか一人でいる事が基本形で、たぶんあまり不幸と感じないと思う。

SNSのおかげで、望めば世界中の人とコミュニケーションできる時代だし、”寂しさ”の不安はほぼない。

それに、Jazzはコミュニケーションの音楽だから演奏を通じて仲間は増えているはずだ。

 

音楽と友人とインターネット、あと読む本があればかなり幸せに生きていける。

でももしかして、本を読むことが困難になるかもしれない。

そうなったら、Webで古今東西・名作の朗読コンテンツを探す。

その頃にはきっと、膨大な名作アーカイブができているに違いない。

 

でもまぁ、こう考えてみると今と殆ど変わらないか、、(笑)。

じゃあ、長生きをして素晴らしく良い事ってなんだろう?

 

これは、すぐに思いついた。

火星だ!

 

小さい頃、『火星のプリンセス』(エドガー・ライス・バローズ)と『火星年代記』(レイ・ブラッドベリ)を夢中になって読んだ。

火星には高度な文明をもつ火星人がいた、という設定は、まるでSF的な荒唐無稽なものではなく、科学の分野でも、古代火星文明の可能性は否定されていない。

 


最近のNASAの研究によると、40億年前の火星は豊富な水をたたえた美しい惑星で、20〜30億年前まで水が存在していた。

人類が生まれるずっと以前の火星に、豊かな自然環境と発達したインフラが存在した、と考えるのは、それほど馬鹿げた話でも全くのSFでもないのだ。

 

『火星年代記』では、地球から火星に移り住んだ家族が新しい”火星人”になる。

遠い未来、私たちが新しい”火星人"になる、そんな壮大な場面を想像してドキドキ興奮したのを覚えている。

 

2016年9月、イーロン・マスク氏(テスラ、スペースX CEO)は、メキシコで開催された国際宇宙会議で、『Making Humans a Multiplanetary Species(人類を多惑星種にする)』と題した講演を行った。

人類を火星に移住させ、さらに他の惑星も目指すと語る彼の計画はかなり具体的だ。

2060年代までに100万人を火星に移住させるという目標について、多くの宇宙開発専門家たちがその実現性を真剣に検討している。

世界の多くの組織が、火星に人類を送り込むことを目指して力を合わせているのだそうだ。

 

私たちが生きている間に、火星に多くの人が移住するかもしれない、コロニーが建設されるかもしれない。

そう考えたら、絶対に長生きしようと思った。100歳まで!

 

人類が”火星人”になる時代を体験するために、お金と健康、頑張るぞ〜と決意を新たにした。


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2018年

3月

02日

平昌オリンピック

平昌オリンピックが閉幕した。

 

うちは相変わらずテレビがないので、もっぱらインターネットで配信されるニュースを見るだけだったが、日本の若い選手たちの活躍には本当に感激した。

競技結果への不安や周りからのプレッシャーは、オリンピックともなればきっととんでもなく大きいはずだ。   

でもニュース映像で見る選手たちからは、自分を信じる強さと、すべての努力の先にある結果を楽しもうとする余裕さえ感じた。

 

以前、このブログで、将棋の藤井聡太六段のことを書いた。

年若い勝負師の心の強さについて、ちょうど彼のプロ入りと同時期に見た、アメリカの天才チェスプレイヤー、ジョッシュ・ウェイツキンの伝記的映画の感想を交ぜて書いてみた。

 

”才能がある者に周りの者たちは無責任に期待し、期待が裏切られた時には無慈悲に失望する。スポーツや芸術の世界でも、一流の人たちはみんなその恐ろしさと戦っているのだ。”

(2017.7.20『ボビー・フィッシャーを探して』)

 

自分に勝つということは、実際の相手に勝つことより、ある意味難しいことなんじゃないか、とその時思った。心が強くなければ、生き残れない世界なのだ。

 

今回のオリンピックで一つ、気が付いた事がある。

日本の選手たちを支える環境だ。

競技への重苦しい不安やプレッシャーを乗り越えられるだけの力強い応援とサポート、そして国民からの暖かい愛情。

この試合には絶対に勝たなくてはいけない!なんて怖い顔で言う人は、ほぼ皆無だった。

選手たちが自分の全力を出し切る事が重要なのであって、結果はどうあれ、それを見守って声援を送るのが私たち国民のできる事だ!そんなふうに、ほとんどの日本人は思っていたんじゃないだろうか。

 

ネットに書き込まれた他国の人たちのコメントやニュースなどを見ると、日本との違いにちょっと驚く。

日本人のスポーツ精神は成熟しているなぁ....と思う。

 

オリンピック・アスリート達の写真は、全てがとても美しい。

特に冬季は、背景が純白の雪と氷なので格別だ。

 

今回の写真の中で私が一番好きな写真は、スピードスケート女子団体追い抜きで、世界一の強豪オランダを破って日本女子が金メダルをとった時の授賞式だ。

両隣りの大きな外国人選手たちと比べて、日本の選手があまりに小さく可愛いらしくてびっくりした。

大人と子供と言っていい程の体格差、体力差がありながら、彼女たちは知恵と気力とチームワークで勝ったのだ!

 

マジで感動して涙が出た、、。

                              (産経ニュースより)

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2018年

2月

20日

受難は続く-完結編

新潟市にある我が実家の度重なる受難--ガス漏れ・ハクビシン・大雪。

 

ブログで詳しく書いたのだが、先日、FBの方にも「こんな大変な事があったよ〜!」と軽い気持ちでアップした。

すると、地方に実家を持つ友人たちから切実なコメントがたくさん届いた。

親元を離れて暮らす人は、地元の大雪や台風などの災害、いずれ無人になるかもしれない家の管理など、年を重ねるごとに心配が膨らむ。

私のFBを見て、人ごとじゃないなぁ....と書き込んでくれたのだ。

返信を書きながら、”こうした空き家問題は、既に社会現象かも”と思った。

 

さて、今月は、11日/建国記念の日に新潟のお寺で親戚の法事があって、前日のうちに新潟に帰ることにした。

新潟にいるなら一緒にライブやろうよ!と、東京で活躍するドラムの友人が、偶々その日は新潟にいるというので誘ってくれて、昼間は法事、夜はライブというスケジュールになった。

他の日もいろいろ予定を入れてあって、なかなか充実した一週間の休暇になるはずだった、、。

 

10日。午後には新潟に着いて、たいした苦労もなく玄関にたどり着いた。

先月に頑張って雪除けをしたおかげだね ^-^ 一ヶ月前の私ってば、えらい!

....しばし自画自賛....。

 

それでも、その後の寒波や降雪で、玄関付近は依然として雪だらけだ。

60〜70センチ以上雪が積もった前庭に、横手の台所裏・ガスの元栓へと続く細々とした小道があった。

先月の大奮闘を思い出して、じ〜んと胸が熱くなった(笑)。

 

感慨に浸りながら、玄関の鍵を開け引き戸を引いた。

カーテンを閉め切った薄暗い玄関ホール。上り口のふかふかマットとスリッパ。

ん〜?なんかいつもと違う、、。

目をこらすと、ふかふかマットがびしょびしょマットになっている。

さらに、ホール一面がなんと水浸しだ!水深2センチくらいだろうか。

 

左手奥の方から、ジャージャーと何か良からぬ音がしている。

長靴に履き替え、水をちゃぷちゃぷ踏み越えながら左手の洗面所に入って、驚いた。

シンク脇の湯沸かし器から出ている水道管が破裂して、勢い良く盛大に水が噴き出していた。ついでに、お風呂場の蛇口からも水がピューピュー噴き出ている。

水は洗面所から廊下へ、そしてホールへと滔々と流れ出ていた。

 

こういう場合、まず水を止めるんだな。

ぱくぱくしながら考えた。

絶望的な事に、私はうちの水道の元栓がどこにあるか知らない。

ひぇ〜、どうすりゃいいんだ〜?

 


とりあえず、水道修理屋さんのカードを探し出して電話をかけた。

繋がるのを待ちながら湯沸かし器周辺を見渡すと、それらしい蛇口を見つけて急いで閉めた。

湯沸かし器の水は止まった。でも、お風呂場の水は止まらない。

 

水道修理屋さんの電話の女性は、とにかくゆったりと話す人で、パニクっている相手を落ち着かせる目的があるのか、電車を追いかける自転車のようにこちらとは致命的な速度差があり、更に酷(むご)い事に「ただいま予約はいっぱいで、今からだと3日後になります。他の修理業者のご案内はこちらではいたしません。」と冷たくおっしゃるのだ。

 

どうしよう〜?

 

その時、ピンと思い出したのは、ハクビシンの時にお世話になった、シャーロック・ホームズみたいな近所の便利屋さんだ。

すがるような気持ちで電話した。

「今すぐには無理ですが、5時過ぎには行けます。」

天の助け!まじでそう思った。

 

便利屋さんが来るまでの間、水道の元栓を探そうとスコップであちこち雪を掘ってみたが、あまりに大変で諦めた。

替わりに、雑巾とバケツをもって家の中の水をせっせと退治しにかかったが、水の量もハンパない上に絨毯もたぷたぷ、しまってあったタオルも何もかもぐっしょりで、『このシリーズ*最大最悪の過酷な試練』となるのは間違いなかった。

 

5時。待ちわびた便利屋さんが来て、洗面所の破裂した水道管を修理してくれた。

でも、お風呂場の水はまだ元気よく噴き出している。

どうも蛇口の問題らしい。

すぐに便利屋さん事務所から2人、加勢に来てくれて、総勢3人で前庭から家の周り一帯の雪を掘り起こして水道の元栓を探した。

あたりは既に暗くなっていて、ライトで照らしながら寒波到来の寒い中を1時間以上、ようやく隣家境のブロック塀付近で見つかった。

( 寒い中を本当にありがとうございました!m(_ _)m )

元栓を閉めたので、お風呂場はなんとか静かになったが、とりあえずは水を使うたびに元栓の開閉をしなければならない。

 

後日、お風呂場の蛇口を交換に来てくれた便利屋さんは、他の危なっかしい箇所も発見してくれた。そこは次回まで様子見だ。

ホールの床の修繕も頼むことにした。

 

誠実で親切で着実に仕事をしてくれて、シャーロック・ホームズみたいに頼りになる便利屋さん。

まだ若いのに立派だなぁ、、。たぶん20代?

彼は沖縄出身なのだそうだ。

新潟県人が想定外と言うほどの今回の大雪と寒波。沖縄の人が初体験するには、『最大最悪の過酷な試練』だったに違いない。

そして、我が家がこんなにも立て続けに災難に見舞われたのも、私にとっては想定外の試練だった。

 

翌日、新潟市古町”JazzFLASH”でのライブの前に、マスターご夫妻とメンバーに一連の出来事を話した。

「もう、ほっんとうに大変だったぁ〜。」 

 

マスターは穏やかに微笑みながら、こう言ってくれた。

「そんなに大変だったんなら、これから良い事がたくさんありますよ。」

わ〜ん(泣)、マスター、ありがとうございます〜(涙)!

 

これからきっと起こるはずの良い事。まずは、早く春になって満開の桜を見る事かなぁ、、。

もう雪はよっぱらですて。(新潟弁で「もう雪はたくさんです。」)

 

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2018年

2月

06日

受難の年明け -Part2-

先月11〜12日に新潟市を襲った驚異的な大雪。

 

市郊外にある実家が心配で、東京でニュースを見ているのがどうにももどかしかった。

翌日午後、さっそく新潟駅に到着すると雪は既にやんでいた。

 

越後線(ローカル線)に乗ろうかちょっと迷ったが、バスで寺尾に向かうことにした。

全ての車はノロノロ運転で、一体いつ帰り着くのか分からなかったが、線路の途中で列車が止まるよりはずっとましだ。

路肩は除けられた雪がうず高く積まれて土手のようになっており、道路上も雪でザクザクしている。

乗客の乗り降りは、歩道からバス乗降口までひと山-除雪された雪の山-を越えなければならず、普段の倍くらい時間がかかった。

 

ようやく自宅近くのバス停で降りて、雪に足を取られそうになりながらよろよろ歩いて家に着いた。

家の前の道路は除雪車が通ったらしく、車一台は徐行できるくらいになっていた。近所の家々は雪かきを既に終えて、特に車庫の前の雪はきれいに除けられている。

新潟で車は文字通り”足”であるから、車が出せないとなると仕事まで休まなくてはならない人もいるそうだ。

 

私の家は、道路から5段くらい石段を登ってちょっとのところに玄関がある。

その石段前に、まるで”通行止め”と言うように雪の小山ができていた。

除雪車が退けた雪が私の肩のあたりまで積み上がっているのだ。

石段から玄関までは綺麗なスロープ状の雪原(笑)になっていて、美しかったがとても我が家とは思えなかった。

1メートルくらい積もったんだろうか。

 

さて、どうやって玄関にたどり着こうかと考えた。

両手に荷物。スコップ無し。我ながら甘かったなぁ、、ここまでとは想像していなかった。ご近所さんは留守みたいだし、、。

どう考えても、体当たりで進むしかないわけで、雪をかき分け足を踏ん張り体で道をつくるという過酷な雪中行軍になった。

 

ようやく玄関に着いた時には、息はハァハァ全身雪まみれで、普段こういう時にはどこか笑っちゃう自分がいるのだが、この時ばかりは悲壮感満載だ。

何故なら、これから更に過酷な作業が待ち受けている。

 

玄関に置いてあったスコップを持って、それから一時間半、一心不乱に雪かきをした。右手の親指の皮が、スコップのせいで擦り剥けたのにも気がつかなかった。

「もう、あとは明日!」と思って長靴を脱いだ瞬間、もの凄く大変な事を思い出した。

 

先月、帰省した時のガス漏れ-ハクビシン騒動。(1月11日記事)

あの時、作業してくれたガス会社の人が「ガスの元栓は、東京に帰られる時に閉めた方が良いですね。」と言ったので、今、家中のガスは出ない。そして、ガスの元栓は台所の裏、雪かきをした前庭からずっと離れた所にあるのだ、、。

 

もうね、、。身体は既に『今日の作業は終了!』モードになっているのに、否応なくまた現場に駆り立てられるという、、。

余計な事は考えず、ただもくもくと台所裏のガスの元栓を目指して雪を掘り進んだ。

 

結局まる3時間、気力・根性で頑張った....o_o

中庭のほうは、庭木が既に折れていてもう諦めるしかない、本当にこんな雪は生まれて初めてだと思った。

 

FBに今回の事を書いたら、ハクビシン騒動も知っている友人が、”天は田崎さんを見放してしまわれたのか、、”とコメントを書いてくれて思わず笑ってしまった。

ほんと”なんでだよ〜”と、思った。

 

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2018年

1月

22日

受難の年明け -Part1-

昨年12月の我が家の災難については前の記事に書いたのだが、今年1月、それを上回る大危機が築40数年の我が古家を襲った。

 

以下、順を追って詳しく書くと、、う〜、もしかしてまた長文になってしまう予感が、、(笑) 。

 

1月11日夜から12日未明にかけて15時間もの間、大雪で立ち往生した列車内に乗客が閉じ込められた件。

菅官房長官が記者会見で言及するほどに全国的に有名になったが、その列車は、新潟駅でたびたび見慣れた新潟発/長岡行き-信越線のあの普通電車。
東京の自宅で、のんびりコーヒーを飲みながらネットニュースをチェックしていたら、かなり大きく報じられていた。
「ありゃ〜。」と思って記事を読んでみると、JRの対策にいろいろ疑問がわいてきた。
と同時に、数年前に経験した新潟駅行きローカル線-越後線での出来事が記憶に蘇った。

冬の寒いある日、新潟駅から新幹線に乗ろうと思って、大きな荷物を持ち、家から8分ほどせっせと歩いて越後線/寺尾駅に着いた。

荷物が重かったのと相当着ぶくれていたのとで、ちょっと息が荒くなりながら、でも余裕で間に合ったな、と安心してちらっと駅の電光掲示板を見てびっくりした。


「強風のため運休」とかなんとか書いてある。このくらいの風で運行停止って、、。

今はもう、”すぐ停まる越後線”という新潟の一般常識は学んだから、駅に行く前にネットで情報確認は欠かさないが、その時は初めてだったのでかなりパニクった。

「えぇ〜?!マジ? そんなぁ、、。 」

 

気を取り直して、小さな待合室にいた駅員さんに「強風で運休って、結構あるんですか?」と聞いたら、彼は何故か笑いながら言ったのだ。

「新潟じゃしょっちゅうらね〜。」

 

やりとりはこれで終了。

詳しい情報を教えてくれるでもなく、ご迷惑をお掛けしますでもない。知らない貴方が残念でした、という態度に呆気にとられた。

ショックを受けて怒りもわかず、そうだ、知らない私が悪いのだと反省しながら、また数分せっせと歩いて新潟駅行きのバスに乗った。

 

そして今回の信越線。

15時間も閉じ込められた乗客の人たちや孤軍奮闘した車掌さん。本当に大変なことだった。

15時間って半端じゃない。

我慢強さは、新潟県人の美徳でもある。

菅官房長官は、「多くの乗客を輸送する鉄道事業者にとって、利用者保護の視点は極めて重要だ。、、乗客にとって最善の対応だったのか。」と疑問を呈し、対応を問題視したそうだ。

 

私は越後線でのことを思い出しながら、どこか似ているなぁ、と思った。企業の精神というかなんというか、、。

そう思ったら矢も盾もたまらず、新潟の友人にメールした。

「これってどうなの?」

まぁ、友人に文句を言ってもしょうがないのだが、彼女からはいたって冷静な返事が来た。

 

”それだけ、今回の雪は想定外だったのでしょう。”

 

11日から降り出した雪は、24時間で80㎝という記録的なスピード降雪になった。

雪に慣れた新潟人をして『想定外』と言わせる程のものだったのだ。

 

彼女の、”お家、埋まってるかも....”という言葉で、にわかに新潟の古家のことが心配になってきた。

”埋まってる”ならまだしも、つぶれてるかも!と思ったら、夜も眠れなくなりそうだった。

 

***Part2に続く***

 

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2018年

1月

11日

天井裏に何かが!

昨年の話になりますが。

 

冬の寒さが本格的になってきた12月始めのある日、私はマフラーをぐるぐるに巻きぷくぷく着ぶくれて、雪降る新潟に帰省した。

夕方には実家に着いて、雪が薄く積もった5段ほどの石段を上って寒さに震えながら玄関の鍵を開けた。

 

家の中はひっそり静かで、まる一ヶ月間、締め切ったままで溜まった空気の匂いがする。

「ただいまぁ。」と小さな声で言いながら、急いで部屋に入ってガスファンヒーターを付けた。

 


「あれ?付かない、、。故障かなぁ?」

「ま、お茶でも飲んで、、。」と思ったら、台所のコンロも付かない。

 

外に出てガスの元栓を確認したら、案の定ピッピッと点滅していたので、手順通り復旧しようとしたが何回やっても正常モードにならない。

仕方がないので、ガス会社に電話した。

 

夜6時を過ぎていたと思うが、北陸ガスの職員の方が2人--主任さんらしい人と部下の20代くらいの人--が駆け付けて来て、それから2時間かけて家中のガス器具を点検し、危険な箇所を修理してくれた。

微量だが、古い器具からガス漏れしていたようだ。

( 寒い中、本当にありがとうございましたm(_ _)m )

 

和室で作業をする間、そばで所在なく見ていたら、何やら天井裏でパタパタ走る音がする。

「わ、ネズミ?!」

驚いて天井を見上げながら、参ったなぁ....と思った。ガスの次はネズミ....。

2人の職員の方たちも「お、なんかいますね。」と顔を上げた。

天井のそれは、元気にあちこち走りまわっている。

「ネズミにしてはけっこう重量感ありますねぇ、、?」

若い方の人がぽつんと言った言葉がどっと不安を煽った。

 

得体の知れない何かが天井裏にいる!わ〜っ‼︎

 

翌日には天井の足音はまったく止んでいたから、夜のうちに外に出てしまったようだ。

家の外を見て回ったら、一箇所、屋根の下/庇の上の板がめくれている所があった。ここから出入りしてたんだな。

 

早速、近所の便利屋さんに電話して来てもらった。

事情を話したら付近を調べてくれて、雪の上に残る小さな足跡を見つけた。

彼は、シャーロック・ホームズみたいにその足跡をじっくり調べたあと、真面目な顔つきでこう言った。

「これは猫じゃないですねぇ。ハクビシンです。」

まったく予想外の生き物の名前で、びっくりというよりぼっとした。

「ハ、ハクビシンって、日本に、じゃなくて新潟にいるんですか?」

「そうですね。他でも聞きます。」

 

便利屋さんが、めくれた箇所を綺麗にふさいでくれてひと安心した。

古い家だからこの先また何が起こるか分からない。普段、住んでいないのだから尚更だ。

でも、シャーロック・ホームズみたいな便利屋さんがすぐ近所にいてくれるのがわかって、めっちゃ心強い気持ちになった。

 

しかし、ハクビシン、、。

インターネットで調べてみた。

 

”食肉目ジャコウネコ科ハクビシン(白鼻芯)属に分類される食肉類。

その名の通り、額から鼻にかけて白い線があることが特徴である。

日本に生息する唯一のジャコウネコ科の哺乳類で、外来種と考えられている。”(wikipediaより)

 


ふ〜む。外来種ということは、もともと日本にいなかったのに誰かが持ち込んだってことだよね。

分布図を見たら、中国大陸南部、マレージアやインドネシアなどの東南アジア、インド、ネパールなどの南アジア、台湾といった、比較的暖かい地域に生息する動物みたいだから、こんな寒い新潟で生きていくのはさぞ辛かろう、、。

 

今、日本全国でいろいろ問題になっている”外来種”。

在来種に危害を与えたり生態系を壊す可能性があって、危険な存在と見られている。

でも、駆除される方からしたら理不尽すぎて「え〜、なんで〜?」って思うだろうなぁ。好きでここにいるんじゃないよって、、。

日本に連れてこられるまでに、いったいどんな災難が彼らに降りかかったのか?

 

写真を眺めながら、ハクビシンたちの過酷な運命をあれこれと想像してしまった。

 

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2018年

1月

01日

日本の未来

新年あけましておめでとうございます。

2018年も良い年でありますように 🎌 と元旦の朝、亡父と母の位牌に手を合わせてお願いした。

 

父も母も、きっと日本の未来に何かできるような事は無いんだろうが、「そこをどうか一つよろしく。」と言いたくなるくらいに、日本の未来が大変な事になるような気がした。

 


心配し過ぎかなぁ、、?

年末/お正月、テレビで大型時代劇とか東西寄席を見ないで、インターネットの国際情勢-解説番組を見ちゃうせいかなぁ。

 

まぁ、北朝鮮も中国も韓国もアメリカもロシアも、私なぞが心配しても何一つ変わらない。

でも、「ふ〜ん、そうなんだぁ。」じゃなくて、今、何が起きているのかを知る、どれが事実なのか知ろうとするって、最低限、私にも出来ることで必要な事なんじゃないだろうか。

 

日本が良い方向に向かいますように。

ついでに私にも、パァ〜っと幸運が降ってきますように(笑)。

 

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2018年

12月

31日

2018年を振り返る-ちょっとポワロ-

10月から書き始めたポワロの記事。Part7まで続いている。

 

高校生の頃は、なんとなく好き、こんな仕草、こんな言葉、こんなに頭が良いなんてとんでもないわ~、やっぱり男は見た目じゃない、正義を愛する心よ!なんて地味に(?)思っていた。

 


年月を経て、彼がワールドワイドな人気者である事や、産みの親であるアガサ・クリスティーにめちゃめちゃ嫌われていた事を知って驚いた。

こんな変てこな探偵のファンなんてそういる筈がないと勝手に思い込んでいたのに、ホームズと肩を並べるほどの偉大な探偵だった、、そんな彼の大成功を喜んでいい筈の作者が「ペンをちょっと動かせば、こんな奴完全に消滅させてしまえるのに」と思う程に彼にうんざりしていた、、。なんてかわいそうなポワロ!

( まぁ自業自得って部分もあるんだけど、、。)

そんなこんなで、私の”ポワロ愛”は、途切れたり外れたりしながらも現在に至る。

 

年末という事で、この一年を振り返って考えてみようと思った。

頭の中を覗いてみたら「ポワロとピアノ」でいっぱいだった(笑)。

”音楽とピアノ”は当然の事なのだが、”ポワロ”に関しては、我ながら呆れて笑うほど書きたい事が次から次に浮かんできてしまう。

高校生の時、ポワロについて10分程度のスピーチをする為に、部屋中にクリスティ短編・長編数十冊を広げて徹夜で原稿を書いた時の事を思い出して、「変わってないねぇ、、。」ぼっと思った。

 

来年は、天皇陛下の御譲位がある。日本にとって大きな節目の年だ。

そして外交と内政、これでもかってくらい様々な問題が大山脈のように積み重なっていて、前がほとんど見えない。

何が起きているのか、何が隠されようとしているのか、何が嘘で何が本当なのか。

インターネットは、一般庶民が持てる最強のツールだ。

しっかり目を開いて見ていこうと思う。

 

皆さま、今年一年、このブログを読んで頂き、本当にありがとうございました。来年が最高に素晴らしい年になりますように。

どうぞ良いお年をお迎えください!

 

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2018年

12月

22日

ポワロ -Part7-

2013年11月、世界中のポワロファンは大きな悲しみに包まれたに違いない。

本国イギリスで11月13日、ポワロ最後の事件『カーテン』(デビッド・スーシェ主演シリーズ完結編)が放送された。

各国で日にちは違うと思うが、日本では2014年10月6日(NHK/BS)である。

 

私なぞは、NHK『名探偵ポワロ』の番組予告で『カーテン』という文字を見かけただけで、奈落の底につき落とされるような絶望感に打ちのめされた。

(はぁ、、ちょっと大袈裟なんだけど、、。)

それにしても、いつかこの日が来るとは分かっていたけれど、あ~とうとう来てしまったのね、これから私、どうすりゃいいの? ってのがドラマのファン達の共通の気持ちだったんじゃないだろうか。

                         (NHKのFBより)

『カーテン』で、ポワロはこの世を去る。

この小説は1975年に発表されたのだが、まるで犯人と刺し違えるかのような彼の最期は、世界に衝撃を与えた。

 

*以下、ピーター・ヘイニング著『名探偵ポワロ』より引用

 

<ポワロの’死’のニュースは、小説が書店に並ぶ前にニュースとなった。

これによって、ポワロがいかに卓越した人物であったかが再び証明されたのである。

ポワロの”死亡記事”は、すべての英国の新聞に掲載され、さらに”ニューヨーク・タイムズ”紙の一面にも掲載された。

それは、ほんのわずかの’実在の’人物にしか与えられない栄誉であり、まして架空の人物にそんな栄誉が与えられることはなかった。>

 

 ”デイリー・テレグラフ”

  ー19758月7日付ー


実は、この作品が執筆されたのは1943年で、発表の32年も前である。

アガサ・クリスティーは1920年にポワロをデビューさせてから、長編も短編もたくさん書いているけれど、どうもポワロが心底好きじゃなかったらしい。

「こんな憎たらしくて、おおげさで、退屈な小男……絶えず口髭をいじくりまわして、卵のような頭を傾けているような奴を、いったいどうして!どうして!どうして作ってしまったんだろうと思ってしまうことがあるわ。ペンをちょっと動かせば、こんな奴完全に消滅させてしまえるのに」(1938年”デイリー・メイル”紙より)

恋人ならとっとと別れるけど、夫婦なら仕方ないっていう感じかなぁ、、。

独身・彼氏ナシの私が、勝手に妄想を膨らませてみる、、。

 

1943年、クリスティは『カーテン』を書いてポワロを葬り去った。もう我慢できない!あんたの顔なんて見たくないって感じか、、。

でも、その原稿は出版社との協議で、耐火・盗難防止金庫の中に厳重に保管された。

世界中の読者たちが到底、納得するはずがなかったから。

そして32年後の1975年、彼女が亡くなる3ヶ月前に『カーテン-ポワロ最後の事件』として出版された。

 

コナン・ドイルも、ホームズをライヘンバッハの滝で抹殺しようと画策したけれど、読者の凄まじい抗議で『シャーロック・ホームズの帰還』になってしまったというのは有名な話だ。

 

そう言えば、『ミザリー』って怖い映画があったなぁ、、。

熱狂的な愛読者が、主人公が死ぬという物語の結末に怒り狂って作家さんを監禁しちゃうってやつ。

生みの親の作家を飛び超えて、創られた架空のキャラクターの大ファンになるって、考えてみれば皮肉な話だ。

 

  ライヘンバッハの滝

    (Wikipediaより)


「作中の人物たちが自由勝手に動き出す。」小説や脚本を書く人がこう話すのを時々聞く。

物語の世界が、現実のように偶発的に動き出すという意味だと思うが、そんなファンタジーみたいな事が本当に起きるのなら、私もいつか小説を書いてみたいな、と思う。

大嫌いにならないような登場人物にしておかないとストレスが凄いことになりそうだし、ストーリーも書きたい題材もまるで浮かばない、何よりそんな才能もないのだが、ただ「作中の人物たちが自由勝手に動き出す。」っていうのを体験してみたい。

どんなものか、想像もつかないワクワクな未知の世界だ。

 

クリスティーとポワロの間にも、作品からは窺い知れないドラマがいっぱいあったのだろう。

彼女の想像の世界で、ポワロは思う存分”暴れまくって”いたに違いない。

 

ノン!ノン!そんな馬鹿げた事、書かないでください。ウィ、私を世界最高の探偵と書いてくださいね。貴女の脳細胞はどこに行ったんですか?まさかそんなくだらない事、私がやるはずないじゃないですか!オーモンデュ、あなた最低ですね、、。

 

まぁ、嫌いになるかも、、。

クリスティーの想いに反して、エルキュール・ポワロはシャーロック・ホームズと同じくらいもの凄い人気者になった。

「なんで?!」とか、思ってたかなぁ、アガサ・クリスティー、、。

 

***Part8に続く***

                                            


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2018年

12月

10日

ポワロ -Part6-

TVドラマ『名探偵ポワロ』は、1989年、イギリスのLWT(ロンドン・ウィークエンド・テレビジョン)によって制作が始まった。

 

ドラマを作るにあたり、その時代背景は1936年に設定された。

なにしろクリスティーのポワロものは、1920年のデビュー作『スタイルズ荘の怪事件』から、ポワロ最後の事件『カーテン』まで、実に55年に及ぶ。

その間、ロンドンの街の様子、交通・建築・ファッション等々、あらゆる物が劇的に変化していったわけで、設定年代を具体的に決めた方がドラマのイメージがはっきりするというプロデューサーの考えだった。

 

英国にとって1930年代後半といえば、後に世界を大きく変える近代的発明品がたくさん考案され、未来への希望にあふれた新しい時代だった。

当時の最新流行だったピカピカのクラシックカー、女性たちの個性的な帽子や色鮮やかなファッション、伝統的な風景の中に突然現れるモダンな建物。ドラマの背景には、そうした時代の先端にあった様々な事物と一緒に、歴史的な事件も記録映像を交えて挿入されている。

 

例えば、豪華客船クイーン・メリー号の処女航海、イギリス皇太子(エドワード8世)の英領インド訪問、ファシズム(ナチス)の台頭、フレッド・ペリーの全仏オープン・テニス・トーナメント優勝とグランドスラム達成、G・ガーシュインの死去、等々。

 

 


史実と物語を上手に絡めて、あたかもポワロやヘイスティングス大尉、ミス・レモンやジャップ警部が本当にその場にいたように思わせてしまう、時代に溶け込ませてしまう、、。

こういうところ、イギリスのドラマ、特に脚本家のレベルがほんと凄いなぁ。

まぁ、シェークスピアがいた国だから当たり前か。でも日本だって、近松門左衛門も河竹黙阿弥も、井原西鶴だっていたのだ。

脚本がほんと大事だって、ようやく日本のテレビドラマ界も分かってきたようだけど、奇をてらうような斜め上の方向に行っているようなのも多い、、。

そうじゃないんだってばぁ、、(泣)。

 

『名探偵ポワロ』シリーズは世界的な人気を博したが、美術の面でも高い評価を得ている。

ポワロが住む ”ホワイトヘブン・マンション” (実際は、チャーターハウス・スクエアに建つ”フローリン・コート”)は、1936年に建てられたアール・デコ様式の建物で、外壁の大きなカーブが優雅で美しい。

私はよく分からないのだが、ドラマで使われる家具などの調度品や俳優のファッションは、ジュエリーなどの小物に至るまで当時のアール・デコ様式でほぼ統一されているらしい。

美術における1930年代の世界観が、専門家の目から見てもとことん再現されているのだ。

 


そして、あの有名なオープニング。

 

哀愁のある古風な音楽はどことなくイギリス的で、ミステリーに付き物の、”誰の人生にも起こり得る悲しい災難の予感”という危険な香りがそこはかとなく漂う。映像には当時珍しかったコンピューター技術が導入され、「テレビ番組で最も斬新なもののひとつ」として非常に話題になった。

「30年代の装飾的なキュービズムの雰囲気を作り出し、マラード号(蒸気機関車)の車輪から’ポワロ’というタイトル文字が浮かび上がる映像の撮影には何か月もの時間が費やされた。」(ピーター・ヘイニング著『名探偵ポワロ』)

ふむ。。ってことでキュービズムについてちょっと調べてみた。

 

*キュービズム (Wikipedia)

 

20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向である。それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収め、ルネサンス以来の一点透視図法を否定した。〜以下略〜

 

      ファン・グリス『ピカソの肖像』(1912)


そういえば、ドラマの中で、容疑者の部屋にあった大きな絵画がキュービズムだったような、、。

 

ポワロ・シリーズは、プロデューサーや制作会社が変わったりして若干の変化があったが、その世界的な人気は衰えることがなく、ほぼ全ての原作を映像化して、2013年6月、24年の歳月を経て完結した。

制作スタッフのクリスティ作品へのリスペクトやプロ意識、その結果としてのドラマの質の高さを改めて感じる。

 

日本の長寿ドラマと言えば....、『水戸黄門』かぁ....。

あ、『相棒』も18年!

けっこう好きです、杉下右京さん。24年までもう一踏ん張り ^ ^//

 

***Part7に続く***

 

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2018年

11月

17日

ポワロ -Part5-

降霊術というと、日本の場合はこっくりさんとかイタコを思い浮かべる。

欧米では、ミディアムと呼ばれるプロフェッショナルの霊媒と出席者たちが、手をつないでテーブルを囲む。

『インシディアス』とか、最近のホラー映画でもその場面が出てくるから、現在でも普通(?)に行われているようだ。まぁ一部だと思うけど、、。

 


探偵小説にとって、降霊術は反則中の反則だ。

なにせ、殺された被害者が「私は◯◯にやられました。」なんて教えてくれるなら、捜査も推理もいらない。

ポワロ作品にはこの降霊術がけっこう登場する。

もちろん犯人を教えてくれるのではなく、犯人を動揺させて自白に導く手段なのだが、イギリス人が日本人と同じくらい幽霊とか怪奇現象が大好きで、交霊会が当時の流行りだった事を考えると、クリスティーのサービス精神や茶目っ気を感じてしまう。

 

彼女は、いろいろと推理小説の反則をやっている。

『アクロイド殺人事件(1926年発表)』は読者たちの度肝を抜いて大変な評判になった。

1928年にノックスという作家が「ノックスの十戒」という推理小説のルールを発表しているが、これは『アクロイド殺人事件』を読んで、よっぽど「これはいかん!反則だ!」と思ったからに違いない。

 

*ノックスの十戒 ( Wikipediaより )

 1.犯人は物語の当初に登場していなければならない

 2.探偵方法に超自然能力を用いてはならない

 3.犯行現場に秘密に抜け穴・通路が二つ以上あってはならない

 4.未発見の毒薬、難解な科学的証明を要する機械を犯行に用いてはならない

 5.中国人を登場させてはならない

 6.探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない

 7.変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない

 8.探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならない

 9.サイドキック(探偵の助手となる者、いわゆるワトスン役のこと)は自分の判断を全て読者に知らせねばならない

10.双子・一人二役は予め読者に知らされなければならない

 

5番が笑える、、。

フー・マンチューのような万能の怪人のことを指す、と注釈にあったけど。

(イギリスの作家サックス・ローマーが創造した架空の中国人)

 


1934年に発表された『オリエント急行殺人事件』では、「ノックスの十戒」の裏をかいて見事に大反則をやらかした。

発表時、賛否両論をまき起こしたようだが、現在ではミステリー史に残る傑作の評価を得て、何度もドラマ・映画化されている。

彼女の”してやったり!”な得意顔が目に浮かぶ。

この作品については、また改めていっぱい(笑)書きたい。

 

ポワロ作品の他にも、『そして誰もいなくなった』や『検察側の証人』など、探偵は出てこないが意外な結末の名作がたくさんある。

アガサ・クリスティーという作家は、読者には驚きと喜びを与え批評家には”あかんべえ”をやる、まさに気骨と皮肉精神にあふれた生粋の『英国人』だったんじゃないかと思う。

 

***Part6に続く***

 

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2018年

11月

06日

ポワロ -Part4-

クリスティー作品の魅力の一つは、事件の舞台にゴージャスな場所がたくさん登場することだ。

 

オリエント急行やエジプトのクルーズ船、メソポタミアの遺跡旅行や地中海のリゾート、大富豪の広大な邸宅には執事がいて、着飾った紳士淑女たちが銀食器の並ぶディナーの卓に着く。

こういうのはイギリスの上流社会で長年に渡って根付いた文化なので、そうと知っていれば全くわざとらしさを感じない。

ポワロは、身分は私立探偵だが、裕福な依頼人たちから事件解決で多額の謝礼金を貰うらしく、身なりから住まい、宿泊するホテルまで一流である。

下宿屋に住んで貧民街や阿片窟にも出入りし、裏社会にまで通じていたシャーロック・ホームズとは大違いだ。

 

ドラマのポワロシリーズを見る女性たちは、登場する貴婦人・紳士のファッションや小物に目を凝らし、泊まる高級ホテルのアメニティグッズ一つ見逃さない。

お洒落で洗練されたポワロの佇まいは、そういうファンたちの眼鏡にかなう。

彼は、完璧な上位階級の住人なのだ。

 

そんな贅沢な雰囲気の中で殺人事件が起こるという設定は、日本のミステリーではなかなか成功しない。どうにも嘘くさい。

人物に文化が漂わないから、悪く言えば成金趣味にしか見えない。

ITで成功した社長とか投資家とか、ただ財産をたくさん持っているだけでは駄目なのだ。

 

上流階級は歴史を通じて閉鎖的であり、良くも悪くも独特な作法を持っている。

日本の場合、戦前を舞台にした横溝正史の作品なんかに、華族という身分の人たちが登場する。子爵や伯爵だ。

そこで描かれる華族たちは、格式はあっても華やかさがない。日本に社交界という制度がなかったからか、”侘び寂び”の美意識のせいか、、。

特権を持つ者の矜持と義務感は武家制度と共に滅び、俄仕立ての社交界は欧州のものとは別物だった。

 

イギリスでは、出自による身分制度が歴史的にすっかり定着していて、今を生きる人々の意識にまで深く浸透していると聞く。

最上位のUpper Classの生活は、現代でも憧れをもって見られているのだ。

筋金入りの階級社会だから、日本のように財産によって若干の格差がある、なんてのとはレベルが違う。

越えられない壁を、国民自ら好んで維持しているようにも見える。

民衆の中心にいた日本の天皇と、民衆の頂点にいたイギリス国王の差というのか、国民の考え方として、階級による差違を当然のことと認める空気がイギリスにはあるんだろうか。

 

そうした意味で、ポワロシリーズで醸し出されるハイソサエティな雰囲気はリアルである。

莫大な遺産を巡る殺人事件というのも、かなり現実的なお話なのだ。

 

物語には、ほとんど働きもせずに親族の資産家に寄生し、遺産をあてに生活している人たちがいっぱい出てきてちょっと驚く。

叔父さんや叔母さん、姪だの甥だの養子や義理の子や恩人の娘まで、まぁ様々な縁で人が集まっている。

元気な若者が昼間からぷらぷら遊んでいても、身分制度のお墨付きがあるおかげで、誰から文句を言われるでも変に思われるでもない。

 

ポワロの相棒、ヘイスティングス大尉もイートン・カレッジ出身だからバリバリのUpper Classだ。

ポワロの捜査に付き合う暇も財力もあるし、趣味はゴルフと車、たまに投資に失敗して落ち込むことはあっても、生活に困るようなことにはならない。

いい大人が暇を持て余して探偵のお手伝い、高級車に乗ってゴルフ三昧というのは、いかにもイギリス的かもしれない。

 


日本の有名な探偵、金田一耕助はどう見ても貧しく、明智小五郎の助手は15歳の少年である。

彼らは上流階級でも財産家でもなく、趣味で探偵をやっているような非常に変わった人たちだ。

そして現代の日本の名探偵は、警視庁か科捜研にいてちゃんと通常のお仕事をしている。

 

閑人(ひまじん)の大人は、日本では変人扱いで肩身の狭いのが普通である。

士農工商の区分があった江戸時代であっても、働かない者に対する風当たりは強かった。

時代小説によく出てくる旗本の次男坊や三男坊は、暇を持て余して悪さをするどうしようもない奴って役回りだ。

彼らは”部屋住み”と呼ばれ、とっとと他家に養子に出されるか一生ごくつぶしの境遇で過ごす。

裕福な商家でも、放蕩が過ぎる跡取り息子は、親族会議で勘当と決まるとさっさと家から追い出された。

 

労働に対する国民意識の違いというか、日本はみんなが平等に真面目に働く社会なんだなぁ、、。

 

ポワロのゴージャス・ワールドについて書こうと思ったのに、とんでもない方向に話が行ってしまった。

まぁ、ハイソサエティに塵ほども縁がなく、贅沢な暮らしには想像力がまったく働かないのだから仕方がない。

ポワロは、別世界の人だからこそ魅力的なのだ。

 

ドラマ『名探偵ポワロ』が、イギリスの良き時代--第二次世界大戦後に植民地の大半を失い、衰退に向かう大英帝国の最後の輝かしい時代--1930年代のイギリスを背景に制作されたというのも、とても意味深い事だと思う。

ポワロと登場人物たちは、その時代のクラシカルなお洒落がどんなに素敵だったか、上流社会の人々の洗練された振る舞いがどんなに優雅だったか、さりげなく見せてくれる。

そんなところに英国人たちのプライドを感じて、イギリス好きの私なぞは一人にんまりしてしまうのだ。

 

***Part5に続く***

 

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2018年

10月

24日

ポワロ -Part3-

第一次世界大戦中、アガサ・クリスティーは看護師や薬剤師の助手として奉仕活動に従事した。

そこで得た薬学の知識を駆使して数々のミステリー作品を執筆し、その多くが世界的なベストセラーになった。

エルキュール・ポワロは、33の長編、54の短編、1つの戯曲に登場する。

 

中学時代に読み始めたポワロ・シリーズだが、いろいろな種類の毒薬が出てきて、それも頻繁に出てくるものだから、中学生のくせに砒素とかモルヒネとか覚えてしまった。

1990年にNHKで始まった英TVドラマ『名探偵ポワロ』は、主演のデヴィッド・スーシェが大好きで、好きなエピソードは英語版で繰り返し見た。

おかげで、これまた覚えなくていい毒薬の英単語と、使用する際の注意事項なんてのを無駄にたくさん覚えた。

 

例えば、ストリキニーネは非常に苦いので、怪しまれずに飲ませるには生牡蠣なんかと一緒にツルっといくか濃いコーヒーに混ぜる。

ヒ素中毒は胃炎と症状が酷似しているので、ボンクラなお医者に普段から診断させる。

リン中毒は緑色の息を吐く場合がまれにあるので、迷信深い田舎だと魂が抜けた!とか言って騙せるかも....。

しかし犯人が逃げおおせた成功例が一つもないので、ちっとも参考にならない(笑)。

いや、別に参考にしようって訳じゃなくて、、。

 


青酸カリとか一酸化中毒とか、英語で言える!と自慢したら、友人にちょっと言ってみろと言われた。

「エ」の口を保ちながら「ア」と発音するという至難の技を使って苦労して発音したら、「ふ〜ん。。」と胡散臭げな目で見られて終わりだったので、ちょっとは尊敬しろ、と思ったが、客観的に見て友人の反応が正しいように思われたので、これは人前でやってはいけない自慢だな、と悟った。

 

古典ミステリーファンにとって、殺人は単なる舞台設定の一つである。

そこにリアリティーを感じさせる必要はほぼない。

探偵が登場して謎解きが始まり、犯人を含めた周辺の人々の過去の秘密や暗い欲望、複雑な利害関係が白日の下に晒される。

そこに至るまでの人々の姿がリアルなのであって、トリックの巧妙さと共に、いかに登場人物が自然に行動するか、犯人にさえ感情移入できるほどに人の心の内面が描かれていれば、きっとその作品は傑作ミステリーだ。

 

それでも前提となる事件としては、首を絞めたり銃やナイフを使うより、毒殺はどこか知的な趣がある。

”激情に駆られて”という設定が成り立たないからだ。

犯人たちは巧妙に毒薬を手に入れ、周到に準備し、もちろん殺害現場では何食わぬ顔をしている。

クリスティーは薬学の専門知識を使って、犯行そのものにリアリティーをもたせた。

 

最近、『アガサ・クリスティーと14の毒薬』という本が出版された。

イギリスのサイエンス・ライター、キャサリン・ハーカップ氏著である。

サイエンス・ライターって耳慣れない職業なので調べてみた。

 

*************

*サイエンス・ライター(Wikipedia)

 

科学( 主に自然科学 )に関連する記述を専門に行う著作家のこと。欧米では「science journalist」と呼ばれることが一般的である。

サイエンス・ライターは、科学を、ジャーナリズムの観点から解説・説明すると同時に、高度で複雑な専門用語や難解な数式などを簡素かつ明確に説明する能力・技術・解説能力を必要とする。

〜以下略〜

*************

ふ〜む、もの凄く賢い理系の著作家さんらしい。

この本では、毒薬の特質を科学的に説明しつつ、クリスティー作品の中でどう使われているか分かりやすく解説しているそうだ。

文芸作家じゃなく”サイエンス・ライター”が書いているので、きっと現実的で信頼できる内容のはず、、。

ドラマで仕入れたいい加減な知識を、きちんと教えてくれるに違いない。

 

秋の夜長に読んでみるか。

正しく知ったからって、誰に自慢できるわけじゃないんだけど、、。

 

***Part4に続く***

 

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2018年

10月

18日

ポワロ -Part2-

ミステリー好きの間で一般的なのは、やはりシャーロック・ホームズだ。

シャーロキアンという種族が世界中にいる。

それに比べて、ポワロは日本ではあまり人気がない。

NHKの海外ドラマ『名探偵ポワロ』で初めて知った人の方が多いんじゃないだろうか。

 

だいたい、外見からして女性にモテるタイプではないし、極端に几帳面でもったいぶった言動は男性からもきっと敬遠される。

小柄で小太り、卵型の頭と大きな口髭、寸分隙のない身だしなみで、何事にも左右非対称を嫌い、秩序と方法を何より重んじるベルギー人探偵。

長身でダンディー、麻薬常習者で整理整頓のできないホームズとは大違いだ。

 


第一次世界大戦中(1914-1918)、欧州大陸からイギリスに亡命してきたベルギー人という設定もなかなか興味深い。

当時のイギリス人はたいてい外国人嫌いで、特にフランスとイギリスは積年の敵対関係にあった。

ベルギーがフランス語圏であることを考えれば、作者アガサ・クリスティーが、国民に熱狂的に愛されていたシャーロック・ホームズと全く正反対のキャラクターをあえて創り出したように思われる。

 

イギリス人とフランス人の関係はかなり面白い。

イギリス人がフランス人を揶揄する呼び名「カエル野郎」は有名だ。

かたつむりやカエルを食べる変な野郎っていう意味だ。

対して、フランス人はイギリス人を「ローストビーフ」と呼ぶ。

ローストビーフが伝統的なイギリス料理だという事と、日照時間の少ない地で育ったイギリス人が、日に当たるとすぐに赤いローストビーフ色になるのをからかう意味があるらしい。(他に諸説あり)

 

『名探偵ポワロ』の中でも、「frog(蛙)」の場面はさりげなく何回か出てくる。

( 英語版で見ると、こういう翻訳に困る台詞(笑)が聞ける。)

子供の喧嘩レベルの悪口をいい年をした大人がポロっと口にしてしまうというのは、なかなか根の深い国民感情である事をうかがわせる。

他にも、ポワロは度々、登場人物のイギリス人たちから「外国人!」「フランス人!」と偏見をもった差別的なニュアンスで接される。ポワロはベルギー人なのだが、、。

 

英仏は、中世の昔から血なまぐさい戦争を繰り返してきた。

有名なのは「百年戦争」。ジャンヌ・ダルクが大活躍した戦争だ。

調べてみたら、本当に100年以上(1337年〜1453年)、休戦の時期もあるが116年もの間、イギリスとフランスは酷い対立状態にあった。

 

その後も、インド植民地を取り合ったり、アメリカ独立戦争でフランスがちゃっかり参戦したり、ナポレオンがイギリス征服を企んだり、まぁ仲悪いったらこの上ない。

実に千年に渡って戦ってきたのだ。

 

            (百年戦争)


ポワロ初登場の事件『スタイルズ荘の怪事件』の発表が1920年、第一次世界大戦が終わって間もなくである。

この頃、列強諸国は大戦の反省からヴェルサイユ体制で国際協調を謳い、イギリスはフランスと共にドイツ軍国主義を封じ込めようとしていた。

英仏は、共通の強敵を前にして、ようやく関係改善に舵を切った。

 

そんな時代背景を考えると、ベルギー人のポワロとイギリス人のヘイスティングス大尉というのは、言わば国家親善カップルみたいなもので、クリスティーがもしかしたら「戦争はもうたくさん!」って思っていたのかもしれないなぁ、、なんて想像してみる。

 

長い歴史を乗り越えて、英仏は今ではトムとジェリーくらいの仲良し--仲良くケンカしな〜♫ 的な友だちになった。

その激動の転換期が始まる時代にポワロがイギリスからデビューしたというのは、まさに”時代の空気”だ。

フランス人という直球を避けてベルギーからの亡命者にしたのは、クリスティーの絶妙なバランス感覚だったかも、、。

 

ともかく、この後エルキュール・ポワロは時代を超え、シャーロック・ホームズと並んで世界中で愛される著名な名探偵になる。(写真はWikipediaより)

 

***Part3に続く***

 

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2018年

10月

11日

ポワロ -Part1-

7年前、IT関連に詳しいYさんがブログ開設を勧めてくれた。

続けられるか不安だったし、ブログを書くほどJazzに精通しているわけじゃない。あまり気が向かなかった。

でも「好きなことを何でも書いていい。」と言われて、すぐにエルキュール・ポワロのことを思った。

急にわくわくした。

 

このブログでずいぶん前に、高校生の時の悲しいポワロ体験を書いた。

あれは、今思い出してもちょっと胸が痛い....。

私ってもしかして変なやつなのか?、とじんわり悟った人生最初の瞬間だ。

以来、源氏物語と鴎外が好きとは言っても、ポワロが好きとは口に出せなくなった。

なんというか、”青春時代のトラウマ”みたいなものだ。

ブログで好きなことを書けるなら、いつか誰にも気兼ねなくポワロのことを書きたいと思って、7年が過ぎた。

好物は最初に食べないタイプなんだな、私、、。

 

中学生の頃から大好きだったアガサ・クリスティーの推理小説について、高校生の時とは違う大人の角度(笑)から、あれこれ考えてみたいと思います。

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2018年

9月

27日

日本人の民度

この頃、外国からたくさん観光客が来ている。

そして、口々に「日本は綺麗だ。街にゴミが落ちてない!」と褒めてくれる。

中国の人は特に、「日本人は、ゴミを捨てないで持ち帰るのだ。民度が高い。」と、日本人の文化水準まで褒めてくれる。

 

こういう時、私はもやもやっと、数十年前の新宿や渋谷のセンター街を思い出す。

通りにはゴミがいっぱいで、故郷の新潟と比べて「東京は汚いなぁ。」と思っていた。

いつからこんなに綺麗になったんだろう?

観光客でない私も、時々、あまりにゴミが落ちてなくて驚く。

 

夏目漱石の小説の中で、主人公が、食べ終わった弁当の空箱を、走る列車の窓から力いっぱい外に放り投げる場面がある。その後、別の人も、果物の皮や種を新聞紙にくるんでポイと窓から投げ捨てる。

明治の人は、こういうのはまったく平気だったのだ。

昭和の人だって、川にいろいろ投げ込んでいた。テレビだって自転車だって投げ込んでいた。

歩きながらガムの包み紙をポイポイ捨てる人は、どこの街でも普通にたくさんいた。

平成になって、いきなり日本国民の民度が上がったんだろうか?

謎だ、、。教育の賜物かなぁ、、。

 

そんな事を思いながら、新宿なぞに行けば「日本人は生来、ゴミのポイ捨てはしない民族です。」てな顔をして歩いている自分が、なんだか可笑しくてたまらない。

漱石も、「へぇ〜。そうだったかね?」とお茶目に首をかしげる気がした。

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2018年

9月

21日

ブラックアウト

今年の夏は、列島中が、酷暑に加えて台風や地震で被害を受けた。

特に北海道では、「史上初のブラックアウト」が起きた。

停電による様々な混乱が報道されて、つくづく私たちの生活は電気なしでは成り立たないのだと痛感した。

 

「史上初のブラックアウト」と聞いて、ずいぶん昔に見た、織田裕二主演の『ホワイトアウト』という映画をぼっと思い出した。( 不謹慎ですみません、、。)

雪に閉ざされた山奥のダムで、テロリストと織田裕二扮する普通の青年が死闘を繰り広げるという日本版『ダイ・ハード』みたいなストーリーだ。

邦画にしては緊迫感あふれる演出で、織田裕二=青島刑事(『踊る大捜査線』)でファンだったから、かなり印象に残っている。

”ブラックアウト”と”ホワイトアウト”。

どっちもアウトだなぁ…。悪い事が起こるぞっていう意味で…。

 


”ブラックアウト”という言葉は、確かドラマ『名探偵ポワロ』の台詞で初めて聞いたのだ。(字幕で見たから、英語で”blackout”)

政情不安が続く1930年代のアルゼンチンが舞台で、街じゅうに不穏な気配が漂い、ポワロが泊まったホテルでは毎晩のように”blackout”が起きる。

 

実際、その頃のブエノスアイレスでは軍部によるクーデターが起きていて、”ブラックアウト”は政治やインフラがしっかりしていない国で起きるものかと思っていたら、先進国アメリカ・ニューヨークでも過去数回、大規模なものが起きている(1965年、1977年、2003年)。

まぁ、あの国は大きいし住民もたくさんいて使う電気量もきっと半端ないから、時々は仕方ないのかもしれない。

 

でもでもまさか、この日本で起きるなんて!と報道各社も驚いたんだろう、今回の北海道の停電は衝撃を以って「史上初のブラックアウト!」と伝えている。

 

ん? 阪神淡路大震災や東日本大震災の時とは違うのか?

調べてみたら、あれは”ブラウンアウト”の状態なのだそうだ。

電力システム全域が停電したのではないので、”ブラックアウト”ではないらしい。

アウトにもいろいろあるのだ。

 

停電発生後、メディアでは日本のエネルギー政策について侃々諤々の議論が交わされている。

議論を聞いたり読んだりすると、どこまでいっても平行線のような気がしてちょっと虚しくなる。

こんな危機を経験して、いつまで結論が出ない議論を続けるんだろうか?

 

不眠不休で復旧に尽力奮闘した現場の電力マン、自治体の職員の方々。

それに、各地で災害救助にかけつけた自衛隊やボランティアの人たち。

こういう人たちに、日本は支えられているのだなぁ、、。改めて頭が下がる思いがした。

 

そして、電気の大切さに思い到ると、当たり前の日常が、実は決して当たり前じゃないことにはたと気付いて、薄氷の上にいるような妙にこわごわした心持ちになった。

 

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2018年

9月

14日

9.11

2001年のあの時、私はJazz仲間たちと車の中にいた。

 

お昼に待ち合わせて都内から車で数時間、近郊のライブハウスのセッションに、ドライブがてらみんなで遊びに行った。

 


半日、ワイワイ楽しく過ごし、帰りの車中は少々疲れたのもあって、ラジオをつけてお喋りも途切れがちだった。

夜も遅くなっていて、窓から見えるのはまばらな街路樹と家々の黒い影、遠くに街の光がちらほら見えた。

すると突然、ラジオからあのニュースが流れてきたのだ。

 

みんなびっくりして、最初は何かの冗談かと思った。

「ま、さか、ね…?」

ニュースを聞いても、状況がどうにも想像できなかった。

 

やがて家に着いて、車から降りてみんなに挨拶して別れた後、急いで部屋のTVをつけるとどのチャンネルにも同じあの映像が映っていた。

信じられなかった、、。私は、何を見てるんだ?

 

以上が、私の中の鮮明な9.11の記憶だ。

 

ところが今朝、2001年9月11日が何曜日だったか調べてみて驚いた。

日本時間で水曜日である。

一緒だったJazz仲間たちは普通のサラリーマンで、水曜日の昼間から遊んでいるはずがないのだ。

Jazzライブハウスのセッションが、平日の午後、早い時間から始まるってのも妙な話だ。

私の記憶の中で、なにかが混線している、、。

これが『間違った記憶(False Memory)』ってやつかぁ、、。

ちょっと呆然とした。

 

まぁ、今更どれが正しい、これが間違いと考えてみても仕方がない。

現にその衝撃的な事件は起こり、その後の世界は変わっていった。

隠れていた厄介な問題がどんどん表に現れてくるようになって、その意味で”歴史の分岐点”と捉える見方もある。

 

私にとっても、この時期は人生の分岐点だった。

この4年後、私は家にあった沢山のシンセサイザーをすっかり売り払って、本気でJazzプレイヤーになろうと決心するのだ。

環境の変化と同時に、音楽に対する気持ちや考え方もずいぶん変わった。

 

つらつら思い返してみれば、他にも大きな分岐点が幾つかあって、私の人生はジグザグというか、運転教習所のクランクコースみたいだなぁ、と思った。

S字じゃなくて、直角なのだ。それもかなりのスピードで突っ込んでいる(笑)。

潔いと言えば聞こえはいいが、前ばかりを見て、周りにあった大切なものを振り捨ててきたんじゃないだろうか?

 

9.11後の世界について書こうと思っていたのに、『間違った記憶(False Memory)』に偶々気付き、予定外の「我が人生の反省」までしてしまった...。

 

今日は、世界中のあらゆる場所で、「9.11のあの時、あなたは何をしていましたか?」という質問がされていたんじゃないだろうか?

それに答える時、人は人生を顧みて何を思うんだろう?

 

アメリカ以外の国では、きっとほとんどの人が、私のようにただぼんやりと当時の風景を思い描いて「あぁ、もうそんなに経つんだ…。」と呟いたに違いない。

陰謀論を読み返して、怒りに震えた人もいるかもしれない。

現在の国際情勢の不安の方が深刻だと訴える人もいるだろう。

あれから長い年月が過ぎた。

それでも、ほぼリアルタイムで報じられたあの悲惨な映像が私たちの記憶から消えることはないし、憎しみの連鎖が始まった瞬間を忘れることは絶対にないのだと思う。

 

時代の転換点の大きな悲しみの日に、それぞれが17年の記憶をたどり、自分の人生と合わせてさまざまな思いを巡らす、今日は、そんな日なのだろうと思った。(2018・9・11)

 

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2018年

9月

07日

お墓参り -Part3-

商店街を歩くうちに、これから鷗外のお墓にお参りするのだと思って、胸がキュンと締め付けられる気がした。

ワクワクとかドキドキとかそんな軽々しいものではなく、もっと厳粛な、ライブ本番前の緊張感にも似た気持ち。

それと、ほんのちょっとの後悔--やっぱ今日じゃなくて、もっと万全の日にするんだった、、とめそめそする気持ち。

二つの気持ちが心の中でせめぎ合って、その摩擦熱でエネルギーが生じたのか、私はかなりなハイスピードでずんずん歩いた。

頭の中でまた別のことを考えないように、わき目も振らずに歩いた。

 

そのうちに、禅林寺をずいぶん通り越したところで、あれっ?と気付いた。

こういうのは、自宅付近で散歩をしていて時々ある。

考え事をしながら歩いていて、気付かずに自分の家を過ぎてしまう。

気持ち良く歩いていて、足にストップがかからなくなるのだ。

 

携帯で地図を調べ直して引き返した。

夏の名残りのような陽の光をいっぱいに浴びて歩き通したので、全身汗だらけになりながら禅林寺の境内に入った。

隣りの八幡大神社では盛大な例大祭が行われていて、屋台も出て沢山の人で賑やかだ。

お寺と神社がこんなふうに併存するのは奇妙な気がしたが、後で建立の歴史を知ってみれば、日本独特な宗教観が自然にすんなり分かる。

 

すぐ隣りだというのに、寺の墓地には神社の祭りの音は全く聞こえて来ない。ひっそりと静まりかえっている。

私は、鷗外のお墓を探してちょっと歩いた。

すると、入り口近くですぐに見つけてあっと思った。

思いの外、墓碑が大きくてそれも驚いたのだが、お墓の前にお供えしてある花が半分しおれていて、あっと思ったのだ。

なぜお墓参りをするのに、私は花を買って来なかったんだろう、、。

 

            ( 中央の大きなお墓が、鷗外のお墓です。)

 

お盆でも命日でもないのに、綺麗な花やお供え物があるはずがないのだが、それでもちょっと寂しい気がして、私は自分の馬鹿さ加減と気の利かなさが心(しん)から残念だった。

今日はリハーサルだからとか訳の分からない言い訳をごにょごにょつぶやいて、それからやおら気を取り直し、墓碑に向かって手を合わせてお辞儀をした。

訪ねて行った家の塀の外でお辞儀をしているような妙な気分である。

気持ちが出来ていない。

尊敬や同感や疑問や愛惜が、整理されないまま、ずっと長い間に大きな漠とした塊になっていて、手を合わせても言葉が出てこない。挨拶もろくに出来ないのだ。

やっぱり、お墓参りはまだ早かった、、。

 

20代であろう若い女性二人が、すぐ斜め向かいにある太宰のお墓の前で写真を撮っていた。

少し離れて高校生らしい男の子が一人、彼女たちが立ち去るのを待っている様子である。

 

「若い人たちは太宰が好きなのね。( 私も最近、好きだけど....。) でも、鷗外の良さを知らずにいるなんて文学好きとしてどうなのかしら? ( 鷗外の墓の写真を撮っている )私を、胡散くさそうに見るのはやめなさい!太宰が鷗外を尊敬していたって太宰ファンなら知っているでしょう?」

たちまち私は、オロオロとつまらない事を考え出した。

多勢に無勢の負け惜しみだ。

 

鷗外は穏やかに苦笑し、太宰は情け深く「そんな事考えなくて大丈夫ですよ。」と声を掛けてくれるような気がふとした。

二人の芸術家が眠るこの場所には、世俗を超えた優しい高貴な空気が流れていた。

 

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2018年

9月

01日

お墓参り -Part2-

森鴎外のお墓がある三鷹・禅林寺は黄檗宗のお寺で、太宰治のお墓もあるので文学好きの人たちにはちょっと有名だ。

 

太宰治は最近ファンになった。

たまたま作品を読み直す機会があって、今更なんだけれどすごい作家だなぁと思う。

太宰が鷗外を敬愛していたことは、彼の短編いくつかに鷗外についての記述があって、そんな大層に言うのではないが太宰の尊敬の気持ちがはっきりと伝わってくる。

美知子夫人も、そんな彼の気持ちを汲んで、鷗外の眠る禅林寺に太宰を葬ったのだそうだ。

 

『女の決闘』という太宰の作品の中で、目に止まった文章がある。

この作品は、鷗外が翻訳したドイツの作家ヘルベルト・オイレンベルク「女の決闘」という短編を下敷きに、太宰流の様々な視点を加えて、深みのある現代的な作品に創り変えたものだ。

その冒頭の部分にこうある。

「鷗外自身の小説だって、みんな書き出しが巧いですものね。スラスラ読みいいように書いて在ります。ずいぶん読者に親切で、愛情持っていた人だと思います。」

太宰が、鷗外の心の優しさについて触れていて嬉しくなった。

とかく”冷徹”とか”冷酷”とか言われる鷗外だが、実はとてつもなく愛情深い人だったと私は思っている。

 

さて、お墓参り決行の日は9月9日(土)で、まだ夏の名残りの強い日差しが照りつけていた。

長かった夏休みの余韻もそこはかとなく残っていて、あちこちで子供たちが声をあげて遊び走っている。

それにしても親子連れが多いな、と思っていたら、その日は八幡大神社の例大祭なのだった。( 毎年9月の第2土曜、日曜日 )

 

八幡大神社は、江戸時代から続く由緒ある神社で、明治の神仏分離令で、別当寺( 神仏習合が行われていた時代に、神社を管理する為に置かれた寺 )であった禅林寺と分かれた。

その為、神社とお寺の地所は隣り合わせである。

 

            (写真はWikipediaより)


禅林寺に向かって商店街を歩いて行くと、神輿を担いだ法被姿の一団と行き合った。

それほど大きくない神輿を守るように囲んで、大人も子供も一緒になってゆっくり歩いて行く。小さな一団だ。

後ろには、近所の家族連れらしい人たちが三々五々、団扇をのんびりあおぎながらついて歩いている。

八幡大神社の例大祭の様子がインターネットにあるが、大変に盛大で威勢がいい。神輿も大きくて豪華だ。

私が出会った行列は、日曜日クライマックス前の町内会の神輿行列だったのかもしれない。

 

日本の神さまは、一年に一回、お社を出て町内の様子を見て廻る。

どれどれ、みんな息災であるか?

そして、祭りの終わりにお神酒を一緒に飲んで感謝を捧げ、民は神さまともっと仲良しになるのだ。

良い風習だなぁと思う。

 

日本人は無宗教と言われるが、日本人にとって神さまは、日々の生活の大本のずっと深いところに存在するので普段は意識にのぼらない。

これはたぶん信仰心とは違うもので、畏れと言ってもいい。

畏れ敬う対象すべてに、”神さま”という名前をつけたのではないかと思ったりする。

神道も仏教もキリスト教も同じ扱いなのはそのせいで、日本人にとって神さまは一つの対象ではなく、もっと大きくて漠然としたものなのかもしれない。

悪いことをすると”ばちがあたる”と信じている人が多いのは、きっと神さまが日常にいるからだ。

 

神さまはほんとにいるのか?

 

世界中の唯物論者が、人間の心の中の根源的な畏怖や突き上げるような喜悦などについて、ホルモンとか脳内の電気信号とかそういうもので説明がつくと言う。

説明がつく事例はきっとあるんだろう。

でも、それは一つの側面でしかないし、現在の科学で人類が知り得ることなんてどれ程のものかと思う。

多くの芸術家や物理学者が、神の存在を感じる神秘の瞬間を体験している。

科学者たちは、それも今ある科学で説明するんだろうか?

神が電気信号だなんて、、そんなぁ、、。

 

私はと言えば、すべてを超越した大いなるものはどこかに存在していて、人類が『人間本来の姿--人間の真の実態』を解明した時、この世/あの世/宇宙の全容が明らかになるのだと思っている。

ん〜、SF的・超常現象的な大ロマンである(笑)。

 

***Part3に続く***

 

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2018年

8月

07日

お墓参り

お盆も近いからか、去年の秋、三鷹の禅林寺にお墓参りをしたことを思い出した。

 

その日は三鷹のライブハウスでイベントがあって、午前中からお店のリハーサルに出掛けた。

無事リハーサルが終わって、みんなでお昼を食べて本番までずいぶん時間が空いたので、私はずっと前から思っていた”禅林寺のお墓参り”を決行することにした。

決行とか大げさな、と思うかもしれないが、森鴎外ファンにとって三鷹・禅林寺は特別な聖地である。

(禅林寺HPより)


鷗外は60歳で亡くなり、禅林寺に葬られた。

『墓ハ森林太郎(鷗外の本名)墓ノ外一字モホルベカラズ』と遺言し、宮内省や陸軍などの官憲による栄典を一切拒否した。

時々、森鴎外は権力組織の中にあって地位に執着した人、なんて言う方々がいてびっくりする。

まぁ、どこからそういう説が出てくるのかおおよそ想像はつくが、鷗外の生涯をいろいろ読み知っていると、反論するのもばからしいくらいの大きな誤解だ。

鷗外研究で、死に臨んだ彼が、強固に官憲威力の容喙を拒んだということは一つのテーマである。

彼は一人の私人としてあの世に旅立った。

 

鷗外のお墓に詣でることは、ファンにとってこれは儀式に近い。

時間あいたからちょいと行ってくるわってレベルの話じゃないのだ。

この日も行こうか行くまいか、少しく迷った。

時間的に可能であっても精神的にどうかということであり、 行くからにはそれなりの心構えと準備が必要とかいう、非常に複雑なファン心理である(笑)。

そして、鷗外のお墓はたくさんの文献で写真付きで紹介されているので、まだ一度も行ったことがないのにすっかり馴染みの場所になっているというのも、今まで足が向かなかった理由の一つだ。

 

ともかくこの日は、本格的なお墓参りの為のリサーチ兼リハーサルってことで自分を納得させて、”決行”に及んだわけだった。

 

***Part2に続く***

 

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2018年

7月

29日

市場の思い出

小さい頃、母のお使いで近くの市場によく買い物に行った。

 

市場の一番奥にあるお肉屋さんで犬にあげる大きな肉付きの骨、その斜め前の魚屋さんで猫にあげる魚のアラを、それぞれお店に頼んで分けてもらう。

我が家には、ニッパという白い毛がふさふさした中くらいのスピッツ犬と雑種の猫が数匹いて、私は、隙あらばニッパの尻尾を引っ張ってキャンと啼かせてしょっちゅう叱られていた。


その罪滅ぼしというほどの事ではないが、骨とアラは子供にはけっこう重かったけれど、文句も言わず買い物カゴをぶらさげて市場に行った。

 

お肉屋さんのおじさん、魚屋さんのおばさんは、人間用の肉や魚とは別に手際よく新聞紙に包んでくれる。

( あの頃は新聞紙がめっぽう重宝した。どこの家でもだいたい全国紙と地元紙の2紙をとっていて、それも朝と夕方の配達だったからどんどん溜まった。我が家では主に子猫たちが、破いたり敷いたりかぶったり乗ったりと、おおいに活用していた(笑)。)

 

魚屋さんの店内には、天井から小さな青いザルがゴム紐でぶら下がっていて、中には小銭やお札が入っていた。

おばさんが手を入れるとそのザルがゆらゆら上下に揺れるのが面白くて、お釣りをもらうまで目が離せなかった。

普通の子は、冷凍ケースに並べられた魚やイカなんかを面白いと思うのだろうが、、。

 

市場の玄関口近くにはお菓子やさんがあって、大きな木の棚が上向きに平置きで置いてあった。

一つ一つの棚の口には取っ手付きのガラスの蓋がついていて、中のお菓子がよく見える。

お菓子は量り売りで、「この豆菓子を200g。」と言うと、お店の人がガラスの蓋を開けてステンレスの大きなスプーンのようなものでお菓子をざくっとすくい、台秤の上に置いたビニール袋の中に入れてくれる。

だいたい200gというところでビニール袋の口を閉じる、その手さばきが手品のように鮮やかなので、私はじっと見ながらちょっと得をしたような気持ちになるのだ。

母は間食をあまりしない人だったから、何か特別な時しかお菓子やさんに行かなかった。

 

他に八百屋さんや金物屋さんもあったと思うが、よく覚えていない。

市場の真ん中をセメントで固めた通路が通っていて、低い天井には蛍光灯がチカチカしていた。

私が行く時はいつもお客さんがまばらで、静かだったような気がする。

 

ある日の夕方、日が落ちて暗くなり始めた市場の周りが騒がしかった。

市場が面しているバス通りで交通事故があって、買い物帰りのおばあさんが亡くなったらしい。市場のお店の人たちがいろいろ話しているのが聞こえてきた。

通りには、おばあさんがかごに入れていた野菜などがまだ散らばっていて、救急車が去った後の緊張感がかすかに残っていた。

交通事故が自分の身の回りで起きるなんて想像もできなかったから、ただただ恐ろしかった。

今思えば、おばあさんは怪我ですんだのかもしれない。でも、その時は通りを見ることさえ恐ろしかった。

 

その後、市場のすぐ近くに大型スーパーが出来た。

スーパーは、明るくて綺麗でなんでも揃っていた。

でも、肉付きの大きな骨や魚のアラは頼んで分けてもらえたんだろうか?

お菓子の量り売りはしてくれたんだろうか?

 

しばらくして、市場がなくなったと母から聞いた。

 

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2018年

7月

19日

暑過ぎる....。

去年の夏は、なかなか快適に過ごした。

 

たまたま見たインターネットの健康情報の影響で、ほとんど冷房を使わずに外の風と扇風機、氷を入れたIce Bagで乗り切った。

冷たい飲み物もさほど飲まなかったし、夏なんだから暑いのは当たり前 ^ ^v とか言うくらいの気力があった。

まぁ外出すれば、過度の冷房に長時間さらされる訳だが、それでも”自律的な体温調節”--自然に汗をかく機会を増やすことでだいぶ体質改善できたなぁ、なんて悦に入っていた。

 

しかし、、。今年はとんでもない、、。

天気予報の日本地図が連日真っ赤で、危険とか厳重警戒とか災害並みの注意報ばかりで外に出るのも恐ろしい。

体質改善より命が大事だと、朝から冷房を入れっぱなしだ。

去年の頑張りがまるまる無駄になってがっかりだが、この暑さはもう異常に思える。

 


”気温40度超え”なんてニュースを見ると、日本はこの先、亜熱帯の国になるんじゃなかろうか、、ぶるっと背筋が寒くなった。

<猛暑=ビールが美味い・アイスクリームが売れる>ぐらいに思っていた昔がほんと懐かしい。

 

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2018年

7月

17日

オウム事件

7/6の死刑執行のニュースを見た時、「あぁ、とうとう、、。」と思った。

「遅過ぎた」「野蛮な制度はやめろ」 国内外からいろいろな意見が聞こえてくる。

 

ずっと昔、ある英会話学習の関連雑誌の記事で、アメリカの普通の女子高校生がこう言っているのを読んで驚いたのを思い出した。

「私は、社会のいろいろな問題ー死刑制度やフェミニズム、政治的立場( 共和党・民主党どちらを支持するか )などについて、いつ誰に聞かれても自分の意見を明確に言えるようにしています。」

 

日本ではとても想像できない事だったので、ちょっとショックを受けた。

彼女は特別に優秀な高校生という訳でもなく、たぶんアメリカでは、学生の頃からこうした社会的な問題を提示される機会が多いのだろうな、と思った。

 

当時の日本で、フェミニズムは”なんのこっちゃ?”だったし、自由民主党以外の政権は実現不可能に思われた。

ただ死刑制度については、世界で廃止傾向にある死刑を行う国の国民として、賛成なり反対なりはっきりさせておこうと思った。

アメリカの女子高生に負けないぞってのもあったし....。

けっこう時間をかけて、ああだこうだいろいろ悩んでみた。

 

結論から言えば、私は死刑制度に賛成した。

理由については、例によってまたもの凄く長くなるので別の機会に、、。

 

ただ、今回のニュースに関連してある事を考えた。それは死刑制度とは関係ないことなのだが。

 

今現在、明らかになっているオウム教団の犯罪。

1990年頃から兵器や毒ガスを作って、殺人、国家転覆まで企てていたのに、殆どの人はまるで危機感がなかった。

マスコミなぞは、事態が深刻になるまで面白おかしく報道していた。

 

必死に警鐘を鳴らしていた人たちはいたし、政権中枢ではなんとか法の網をかけようとしていたはずだ。

でも、それを阻止しようとする力が確実にあり、多くの無関心・楽観主義が目の前の事実を見過ごした。

みんな、まさかそんな事が、、とまるで現実でないように思い、私はワイドショーのコメンテーターたちが言う事を、ふ〜んそうなんだと思って聞いていた。

 

当時と比べて、私たちの無関心や楽観主義はあんまり変わっていないと思う。

何が変わったかと言えば、マスコミ--朝日新聞やTVなどのオールドメディアが無残なほどに信頼を失った事、SNSやインターネットが普及した事。

地下鉄サリン事件の時とは比べものにならないほどの大量の情報が、ネット空間に真偽錯綜するようになった。

ちょっと努力して勉強すれば、事実を客観的に知ることができる。

TVのニュースや一部の新聞が、いかに意図的に歪めて伝えているかも知ることができる。

 

無関心でいることで確実に社会の流れから取り残されていくことを、少しづつ、普通の人でも気付き始めていて、さらにこれから日本の情報伝達環境は劇的に変わろうとしている。

技術的にも法律的にも、この流れはもう止められない。

口を開けて情報を待っている時代は終わったのだと思う。

 

オウム事件が区切りを迎えたことで、そんな事を考えた。

そして、1995年3月20日の朝、部屋のテーブルの上に置かれた白いマグカップから立ち上るコーヒーの香り、TVで叫ぶリポーターの声、何が起きたか理解できずただびっくりしてTVの画面を見つめていた自分の姿を思い出した。

 

あれから、23年もたったのだ、、。

 

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2018年

6月

28日

路線図

某月某日@某ライブハウス。ライブ後にベーシストさんと雑談。(編集済み)

「田崎さんはどちらにお住まいですか?」

「私は西武新宿線の◯◯です。あなたはどちら?」

「僕は小田急線の◯◯です。」

 

以下、編集なし。

「ふ〜ん....。小田急線かぁ。小田急と言えば、祖師ケ谷大蔵と経堂ってなんかもの凄〜く良いよねぇ。」

「いやいや、祖師ケ谷大蔵とか経堂って、世田谷区じゃないすか。」

「最近、京急線に乗るんだけどさぁ、金沢文庫って駅があるの知ってる?金沢八景もあるんだよ。青物横丁ってのも良いよねぇ。」

「はぁ?( ちょっと何言ってるかわかんね〜。)」

 

意味不明な会話になっているが、この時、私がやや興奮気味に話しているのは、沿線情報とか駅の利便性とか家賃相場とか全く関係なく、ただ駅の名前についてである。

私は、東京の私鉄/地下鉄の駅の名前が好きなのだ。

 

電車に乗ると、なんとなく出入り口の上部に掲げてある路線図を眺める。

整然と並ぶ駅名を順番に見ながらふ〜ん、へぇ〜とやっていると、中に一つ二つ「ん?」てのがある。

あとでwikipediaで駅名や地名の由来を調べてみると、とても由緒ある名前だったりしてほぉ〜と感動する。

 

因みに、祖師ケ谷大蔵の大蔵は、律令制度における官庁の名称から来ている。

延暦期(782~806年・桓武天皇)に、武蔵国守兼大蔵卿・石川豊人が住んでいた土地ということらしい。

祖師ケ谷の祖師は、もちろんお祖師様-日蓮上人である。

祖師ケ谷と大蔵に挟まれるような土地に駅が作られたので、祖師ケ谷大蔵の名前がついた。

我が西武新宿線の上石神井や鷺ノ宮も、調べてみると情緒あふれる歴史があってなかなか良い。

 

山手線や中央線の駅名はあまりに慣れてしまって何も考えなくなっているが、私鉄/地下鉄駅は、それに比べて馴染みのない駅が多くて新鮮だったりする。

 

今年3月から横浜のお店で演奏することになって、京急線に初めて乗った時は我ながらドキドキして心が躍った(笑)。

金沢文庫、金沢八景、青物横丁、、。

八丁畷(はっちょうなわて)や生麦も、相当グッとくる。

生麦はあの有名な「生麦事件」の現場だ。地名の由来は徳川秀忠の時代に遡る。

 

昔の日本人の、名前についてのセンスは驚くほどだ。

いや、当時は普通につけた名前かもしれない。

でも何百年にもわたってちゃんと残って、国や庶民の歴史を伝えてくれている。そう考えてみると、漢字の偉大さにも思いが及ぶ。

 

しかし、電車に乗って路線図をずっと見ながらふ〜ん、へぇ〜とか言ってる人ってかなり怪しい。それも時々ふっと微笑んだりするし....(笑)。

冒頭のベーシストさん。田崎→変なヤツになってないといいけど、、。

 

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2018年

6月

16日

孤独について

毎朝、インターネットでニュースをチェックする。

「日経デジタル」はわりと好きで、いくつかお気に入りのコラムがある。

今朝読んだ『「孤独という病」は伝染し、職場を壊す』(by河合薫氏)という記事が興味深かった。

 

今、”孤独”が注目されているのだそうだ。

世界では、1980年代に孤独研究が学会で関心を集め始めて以来、孤独が社会に与える影響が様々な面から調査・分析されている。

WHO(世界保健機構)ヨーロッパ事務局は、社会や組織に及ぼすリスクとして孤独感に取り組んでいるし、英国では今年1月、内閣に”孤独担当大臣”が誕生したそうだ。

 

「いったん孤独の罠にはまると底なし沼のように孤独という病いに引き込まれる」とする米大学の研究チームの論文が紹介されているが、記事を読みながら少々混乱した。

 

 


私は一人の時間が好きで、孤独を愛する、とか孤独を楽しむといったふうに考えていたので、孤独が病いと言われて、え?と思ったのだ。(『孤独のグルメ』大好きだし、、。)

でも、”孤独”を”孤立”と置き換えてみて、なるほど〜と納得した。

 

友だちや仲間、相談相手がいない状態を想像してみたら、心が病んで当然のような気がした。

不安感や不信感を抱きながら生きていくのは、きっともの凄く辛いし苦しいし楽しくない。

さらに記事では、SNSの発達についても言及していた。

いわゆる”リア充”に嫉妬するってやつだ。孤独がゆえに、ネガティブな感情がいやが上にも高まる。

 

朝からどんよりした気分になったが、最近多くなっている酷い事件の根底に”孤立”がもしかしてあるんじゃないかと思ったら、ホラー並みに背筋がぞっとした。

だって、日本国中に孤立している人がたくさんいる。( 日本は「孤独大国」で、OECD加盟国で社会的孤立の割合がトップらしい。)

そして、サポートの手が及んでいない。そういうのは、個人の問題とされているから。

 

孤独が病いであるなら、放っておいていい問題じゃない。

その人たちが精神的に追い詰められる前に、信頼できる人間関係に引き入れる工夫( おせっかいでも無理強いでも )が必要なのかもしれない。

英国政府は、既に方針を決めて予算を投入している。

 

これは本当に難しい問題だと思う。

孤立する人は自分から周りを拒絶しているケースもあって、その場合どうやったら暖かい信頼関係が築けるんだろう?

個人でなんとかできる限度を超えてしまっているんじゃないだろうか。

 

どうして世界で”孤独”が注目されているのか、少しわかったような気がした。

朝っぱらから、ちょっと重過ぎな話題で疲れた、、。

 

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2018年

6月

11日

ニュース

今朝、インターネットで見つけた写真。

現在海外メディアがこぞって取り上げているのだそうだ。

 

今月8日、カナダのシャルルボアで開幕した主要7カ国首脳会議(G7サミット)で、首脳宣言の採択に向けて最後の詰めの議論を交わす様子を撮影したもので、ネットのコメント欄には「歴史的な一枚になる」といった声が世界中から寄せられていた。

 

『サミットでは、安倍晋三首相が昨年に続いて北朝鮮問題などで議論を主導した。米国と欧州・カナダが激しく対立する気候変動問題や貿易問題でも「裁定役」を務めるなど、存在感を発揮している。(6/10、産経ニュース・田北真樹子)』

 

”トランプ氏が日本を除く5カ国の反発を受けるたびに、困って振り向く先は安倍首相だった”そうで、「シンゾーの言うことに従う」「シンゾーはこれについてはどう思うか?」が繰り返されたらしい。

 

この写真は、現在の世界情勢をシンプルに表しているし( 強固な日米同盟/アメリカとEUの対立 )、日本が調停役のポジションにいるのもよく分かる。

戦後の日本外交で、これほど日本らしい外交ができた事はなかったんじゃないだろうか?

 

「この写真は教科書に載るぞ!」ってコメントが面白かった。

これから北朝鮮の核問題も大詰めを迎えるし、ますます国際ニュースから目が離せない。

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2018年

6月

10日

Mac miniが、、。

朝、起き抜けにMacを操作していてとんでもないことになってしまった。

眠気もふっとんで青くなった。

あのスイッチを押さなければ....、と悔やんでみてもしようがない。

システムの再インストールが必要になって、瀕死のMac miniを抱えて新宿まで出掛けた。

Apple修理店のお兄さんは、「中のデータは全て消去されます。」なんてもの凄い残酷なことをにこやかに言う。

私も内心の激しい動揺を隠して「はい、分かりました。」とにっこり答えた。

大事な情報はバックアップしてあったが、このブログの為のメモや料理のレシピなんかが消えてしまう、、。  

普段それほど大事に思っていないのに、いざそれが消えるとなると、あり得ないくらいの悲劇に感じる。

 

Macをお店に預けて、とぼとぼ家に帰ってきた。

 

Macの無い生活がいかに過酷なものになるか、あれこれ考えたら絶望感がわいてきた。

家にTVが無いので、ニュースもドラマも映画も全てMacだ。

家計簿もブログも写真管理も、ずっとMacでやってきた。スマホの画面は小さいのでストレスが大きい。

お店のお兄さんは一週間から10日と言っていたが、そんなに長い間、辛抱できるんだろうか、、?

 

思ったより早く、Mac miniが元気になって戻ってきた。

外見は以前のmini子だが、中身は全く別人のmini子だ。

ソフトの再インストールやらいろいろやっているうちに、便利なアプリやサイトをいくつか見つけて、新mini子は見違えるように使い勝手の良い子になった。

細かい作業に時間も手間もめちゃめちゃ掛かったが。

 

う〜む、こういうのを『人間万事塞翁が馬』というのかもしれない。『雨降って地固まる』かな?

それにしても、メモやレシピは惜しかった。残念....。

 

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2018年

5月

27日

歩く★

先日、暇つぶしにインターネットを見ていて、「スマホを持って歩くだけでプレゼントが当たるウォーキングアプリ。」というのを見つけた。

早速、ダウンロードして使ってみるとなかなか楽しい。

 

目標歩数を達成するとか毎日ログインするとか、いろいろなミッションがあるのだが、クリアするとパ〜ンとキラキラ画面が現れて、可愛いキャラクターがやったぁ!みたいにチアアップしてくれる。

ポイントもどんどん貯まっていくので、お得感もある。

 

私みたいに出不精だと、歩くと健康に良いと分かってはいても、用もないのに外出するのはけっこう面倒くさい。

オタク気質の人間にとって部屋の中で楽しめる事はたくさんあるので、何も外に行かなくたって、、となってしまう。

仕事の日以外、運動量はほぼゼロだ。

 

ところが、歩いて目標をクリアするとわ〜っ(キラキラ!)と褒めてくれて、その上ご褒美(ポイント!)までくれるとなると、ま、歩くのも楽しいよね、健康的だし、、となる。

雨の日でも散歩に出るようになったのは、我ながら驚いた。

 

やっぱモチベーションって必要です、、。

さて、いつまで続くのか?

 

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2018年

5月

18日

越後線で。

5月7日、新潟市で起きた小学2年生女の子の殺害事件。

陰惨な事件を報じる記事に衝撃を受けたが、その現場というのが、このブログで度々登場している越後線だ。

 

越後線にはとても思い入れがある。

 

高校生時代には毎日乗っていたし、今でも新潟に帰れば利用する。

バスより早いし、料金は半分だ。( 郊外のバス代は途轍もなく高い!)

実家からバス停は2分、駅まで8分で、余裕がない時以外はたいがい越後線に乗る。

 

越後線は単線で、他の列車とすれ違うことなくゴトゴトのんびり走る。

この”我が道を行く"感がすごく好きだ。

線路の脇の草地を隔てて住宅街がずっと続き、唯一のハイライトは、川幅約200メートルの信濃川に架かる鉄橋を渡る時だ。

眼下に見る川岸の桜並木は見事だし、遠く市街に広がるビル群の中に聳え立つタワーや県庁舎、コンベンションセンターなどが一望できる。

夏には広い川面に船々が浮かび、夕暮れ時には彼方の海に沈む太陽の夕焼けに思わず見とれてしまう。

十秒くらいだろうか、車窓から眺める風景は格別だ。

この愛すべき越後線の唯一の欠点は、強風ですぐ運行停止になることだ。

朝起きて、窓の外の風や雪などで運行停止の危険を察知した越後線利用者たちは、早速、携帯をチェックし情報を交換する。

いよいよ運行停止決定となると、ツイッターには呪詛の声が溢れるのだが、殆どの人はもう諦めている。

なるたけその回数が少ない事を祈るばかりだ。( たまに”そよ風で運休”とか揶揄されている....。)

 

そんな我が越後線で非道な殺人事件が起き、その上、現場はうちのマジ隣りの駅だった!

もうね、、このもやもや感、怒り、悲しみ、、。

 

興味本位で現場報道をしているTV局があると聞く。

うちにテレビがなくて、本当に良かった。

そんなレベルの地上波放送は、たまたまであっても絶対に目にしたくない。

まったく、ほんとうに、とんでもなく酷い事件だ。

ただただ、女の子がかわいそうで虚しい気持ちになる。どうしてこんな事が起きたんだろう?

 

心からご冥福をお祈りします。天国できっと幸せでありますように、、。

そして、悲しみに沈むご家族や周りの方々に、少しでも穏やかな生活がどうぞ戻りますように。

 

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2018年

5月

10日

愛しの西武新宿線

東京にいると、「便利な街ランキング」とか「住みたい街ランキング」とか街に関する人気投票をいたるところで目にする。

引っ越ししようかなぁ、、って時には、まずチェックする人が多い。

それより利用頻度は落ちるが、「沿線ランキング」というのもある。

1〜3位は山手線、東急東横線、中央線が常連で、我が「西武新宿線」は10位圏外とまったく人気がない。

以前、中央線/国立に14年ほど住んでいたので、人気沿線に漂うある種のメジャー感が西武線に全く無いのはじんわり分かる。

 

国立から引っ越してきた当初、平日昼間の駅ホームを歩きながら、あまりに人がいなくてびっくりした。

東京はどこも人が多過ぎて、なるたけ人が少ない時間・場所を探す習性になっているが、「西武新宿線」はその点かなり理想的だ。

中央線・最終電車の、過酷なぎゅうぎゅう詰めを経験せずにすむのも嬉しかった。(ライブが終わって帰ると、最終電車になることが多い....。)

駅前は、お洒落なカフェこそないが地元商店街がこじんまりと充実している。

大きなスーパーも複数あるが、商店街のお肉屋さん、パン屋さん、八百屋さん巡りをするのが好きだ。

小さい頃、母のお手伝いで家の近くの市場に買い物に行ったのを思い出して、今は大人になった分、店主のおじさんの粋な江戸っ子ぶりを面白がったり、おばさんとなんてことない会話が楽しめたりする。

 

「西武新宿線」と「西武池袋線」は西武鉄道の二枚看板で、住民の間には、ふだん表には出ないがなかなか複雑な感情がある。

池袋線住民は「新宿線は文化がない。」と言い、新宿線住民は「池袋線の駅は古くて汚い。」と言う。

マイナー同士、仲良くケンカする微妙なライバル関係(笑)にあるのだ。

 

たまたまつい先日、池袋線に乗る機会があって石神井公園駅に行ったのだが、駅に着いて愕然とした。

「なんじゃこれは〜!」思わず小さな声で呟いた。

数年前に来た時には、鄙びて古臭い、正しい池袋線らしい駅(笑)だったのに、私の知らない間に急激に開発が進んだらしく、都会的で美しい、池袋線らしからぬ駅に変貌していた。

「聞いてないよ〜!」

 

そう言えば去年、ネットで『「池袋線ばっかり」西武新宿線株主の不満炸裂』という記事があった。

”西武HD株主総会で、池袋線が重点的に改善されている事に対して新宿線住民が抗議の声をあげた”とあったのは、まさにこの事だったのだ。

 

新宿線完敗じゃん、、としおれて帰ってきた。

まぁ、新宿線派の意見を経営幹部がもっともだと聞いてくれたら、近いうちに我が駅もむっちゃくちゃお洒落になる可能性もある。

駅が近代的な商業ビルになって、ブランドのブティックとか有名カフェが営業するかもしれない!

 

……しかしそもそも、人が少ないマイナー感が気に入っていながら、あっちばっかり開発して、、とめそめそ傷付くのも変な話だ。

大好きな商店街がなくなってしまってもいいのか。有名カフェ目当てに、人がいっぱい来ちゃったらどうするんだ。

 

どうも巷の人気ランキングの影響で、知らず識らず勝ち組・負け組の悪しき価値観に毒されている、、。

思うに、街の価値は、便利さとか洗練度とかいっぱいお店があるとか勝った負けたとかじゃない。

住む人が自分の街が好きで、居心地が良いと感じることなんだ。

私は、急行が止まらないほんわか緩いこの街を愛している。

 

頑張れ、西武新宿線!

お洒落な池袋線なんかに負けるな〜! ....あれ?

 

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2018年

4月

30日

池袋駅で。

ほんの数年間だが、地下鉄有楽町線/氷川台駅の近くに住んだことがある。

JR線と有楽町線の乗り換えが池袋駅なので、買い物も西武・東武デパート、東急ハンズでしていた。

東口に西武、西口に東武ってのが面白かったし、東急ハンズはちょっと駅から歩くけれど、渋谷まで行かなくてすむので便利だった。

 


池袋駅は、新宿駅や渋谷駅みたいに大きくて、いろんな人がむちゃくちゃいっぱいいて、活気があるけどどこか妖しげな雰囲気が漂い、超能力者に言わせると「近寄ると危ない場所」であり、当時は若かった私(笑)にとって、少なからず警戒心を持たせる場所だった。

超能力者云々の話はまた別で書くとして、警戒心というのは、第六感・女の直感とでもいうのだろうか、油断していると何かトラブルに巻き込まれるかもしれない、それに備える危険アンテナが自動的に作動し始めるという感じだ。

 

深夜、山手線の車内には酔っ払った人たちがたくさんいる。

池袋駅のホームで、そういう人たちが電車から降りて喧嘩を始めるのを何回か見た。

最初に見た時は、一方的にボコボコに殴られている人を周りが助けようとした結果、どういう訳か大乱闘になっていた。

日頃のストレスが溜まっているのか、スーツを着た大人たちが殴り合いの喧嘩をする姿には鬼気迫るものがあった。

 

終電を逃すと、氷川台までタクシーで帰ることになる。

雨がしとしと降る肌寒い深夜、駅前のタクシー乗り場で並んでいたら、乗用車がスーッと私の前に止まった。

運転席の窓が開いて、人の良さそうなおじさんが親しげに、「どこまで行くの?寒いから乗りなさい。送ってあげるから。」と言う。

優しそうな笑顔が、今思い出してもぞっとする。

人を疑うことを知らない若い女性たちを騙そうとする悪人の顔だった。

うかうかと乗ってしまったらどうなっていたんだろう。

 

駅構内には、飲食店や雑貨屋さん、さまざまなお店がある。

歩いていたら、ある衣料品店の前に大きなキャリーバッグがぽんと置いてあった。バッグの中から荷物がはみ出ているので、それが商品でないのは一目瞭然だ。

でも、持ち主はそばにいないので、とりあえずそこに置いたのだろう。

これだけ人の往来が激しい場所にとりあえず置いたというのがそもそも謎で、私は他人事ながら心配になった。だって、誰でも持っていける状況だったから。

そして、こんな大胆なことをやってのける人ってどんな人だろうと興味がわいたので、その衣料品店に入ってみた( 暇過ぎ....だよねw )。

店内は思ったより広いスペースだったが、商品が効率よくたくさん置かれているので、お客さんたちは互いに気遣いしながらすれ違っていて、とても店頭におかれたキャリーバッグなど見ることはできない。

商品をプラプラ見ているうちに、そうだ、欲しいジーンズがあったんだと思い出して、すっかり買い物に夢中になってしまった、、。

お店から出た時に偶然、例のキャリーバッグを持って歩いて行く女性の後ろ姿を見た。若いごく普通の人だった。

私がお店に入って、20分後くらいだと思う。

日本がとてつもなく安全な国なのか、日本人が他人を無条件に信じる無垢の国民なのか。

私は、なんだかそら恐ろしい感じがした。

 

今でも時々思い出す、不思議な出来事がある。

 

有楽町線/池袋駅・地下のホーム。

周りにはほとんど人がいなくて、私は一人、何も考えずに電車を待っていた。

何も考えずというよりは、その当時、あまりに辛い日々が続いていてほとんど何も考えられない状態だった。

もう死んじゃいたいなぁ、、なんてふっと思った。それほど苦しくて心がぼろぼろだった。

その時、いきなり胸の下の方からどうっと何かが突き上げてきて、思わず顎を上げた。息もできないくらいの勢いでそれは胸の中、喉から頭へと突き抜けていった。

何秒間か、口をパクパクして上を向いたまま、身動き出来なかった。

体の奥から頭の先まで、何かに満たされていっぱいになったような感覚だった。

何が起きたのかまったく分からなかったし、あまりに突然だった。

敢えて言葉で表現するなら、それは”幸福感”ーそれまでに経験したことのない、自分で制御できないすごい力で湧き上がってきて勢い余ってあふれ出したような”幸福感”だった。

 

普通、幸福感というのはじわじわ感じるものだと思うのだが、あれはまさに幸福爆弾がスローモーションで炸裂したようだった。宝くじが数十億円当たったとかの次元じゃない、、。

人生最悪の苦境のさなかに、何故あんなことが起きたんだろうか?

 

池袋は、人の理性を狂わせ、摩訶不思議な超常現象が起こる街なのかもしれない。

土地が持つ力みたいなものがあるとするなら、まさにそんな神秘なエネルギーを持つ場所だ。

 


そういえば、江戸時代の怪談に『池袋の女』というのがある。

武家屋敷などで、池袋出身の女中を雇うといろいろな怪現象が起こる、という俗信だ。

江戸時代の文献に、いくつか怪異の実例が書かれているそうだ。

 

オカルト・ホラー好きの私にとって、池袋はちょっと怖い街、大げさに言うなら畏怖の念を抱かせる場所である。

 

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2018年

4月

12日

東京駅で。

あれは、私がまだシンセサイザーを弾いていた頃の出来事だ。

ツアーの仕事でどこか地方から東京へ帰って来て、東京駅の構内を足早に歩いていた。

大きな荷物を肩にかけているので、早く家に帰ってゆっくりしたかった。

 

前方に丸の内中央口が見えて、何やらものものしい雰囲気になっているのに気がついた。

警察官や警備員と思われる人たちがたくさんいて、入り口から通路の両側にロープを張って、何ごとだろうと集まってきた人々を整理している。

こういう光景はTVのワイドショーなんかで見ていたので、きっと大物タレントが来るのだ、と直感してワクワクした。

外国人アーティストだといいなぁ、これだけ警備がすごいのだから世界的スターだよなぁ、なんてミーハーな事を考えながら、人だかりの後ろで首を伸ばした。

たまたま私の隣には音楽関係らしいグループがいて、私と同じような事を考えていたに違いない。

当時としてはお約束の、長髪・革ジャン・鎖系でキメたロッカーたちだったが、おとなしく並んでスターが現れるのを待っていた。

 

しばらくすると、入り口付近一帯がざわざわして、人影がふたり見えた。

わ、誰だ?と思って目をこらすと、なんとそれは天皇皇后両陛下であった。

 

予想外のことに、私はびっくりした。本当に驚いた。

ゆっくり歩かれるお二人を目で追いながら、何故だかふっと涙がでた。本当にどうしてかわからないが、涙が自然とでた。

この時の気持ちはどう表現していいか分からない。

 

今となれば、「あなたは保守の人だから、天皇陛下が大好きなんでしょ。」と友人にからかわれるのだろうが、当時は保守でもなんでもなかった。

普通に南京事件を丸々信じていたし、全て日本が悪いという情報ばかりの中でずっと来て、この国も歴史も政治も、もうほとんどどうでもいいと思っていたのだ。

だから、天皇という存在について、考えたことも思いを巡らすことさえなかった。

 

あふれた涙に自分でもとまどっていると、隣にいたロッカーの青年が、「俺、感動した〜!」と興奮して嬉しげに仲間たちと話していた。

その言葉に、「そっかぁ、わたし、感動したんだ。」と納得したのを覚えている。

 

あの時、青年たちも私も、大物アーティストをきっと期待していたのだ。

そしてその期待は裏切られた。

がっかりして当然だった。

国を愛するなんてことをついぞ考えたことのない若者が、天皇皇后両陛下に接して、なぜあれほどに感動したのだろう。びっくりした、で終わらなかったんだろう。

 

今ふりかえってみると、これは日本人が持つ”集合的無意識”みたいなものじゃないかと思うのだ。

 

普段は表に出てこない。

そんな気持ちに気付きもしなければ、そもそもあるはずがないと思っている。

でも、いざ直面した瞬間に湧き上がってくる気持ち。

直面したことのない人は、まさかと一笑に付すのかもしれない。ばかばかしいと思うのかもしれない。

 

2000年以上続く皇室の存在について、特に戦後は否定する人たちも少なくない。

でも歴史上、ことに当たって日本人が団結する時には、常に天皇という拠り所があったという事は紛れもない事実で、これは権威的な強制でもなんでもなく、ただ民族の心の中心に天皇がいたからじゃないだろうか。

昭和史においては、教育に依るところも大きいのだろうが、、。

 

 


来年4月30日、天皇陛下が退位される。

生前退位というのは、大日本帝国憲法、現日本国憲法でも認められていないのだそうだ。

でも、80歳を過ぎてなお公務に忙しくされるお姿を見て、多くの国民はただ素直に、”どうかゆっくりお休み下さい”と思っていると思う。

歴史的な行事がどのように執り行われるのか、新年号は何になるのか。

 

国内・国外で問題山積、2020年にはオリンピックもあって、日本は今、本当に大変だ。

こんな時だからこそ、これから一年、日本と皇室について、日本人が持つ”集合的無意識”について考えてみるのもいいかなぁ、、なんて思っている。

 

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2018年

3月

31日

5年前のこと

2013年1月4日の朝。

新潟に帰省していて、そろそろ東京に戻る準備をしかけた私の目の前で、父がいきなりバタンと倒れた。脳梗塞だった。

それから1年半の間に、父が亡くなり、後を追うように母が亡くなった。

私は住まいを東京から新潟へ、そしてまた東京へと移した。

 

その頃の事は記憶が曖昧で、断片的な映像が脳裏に浮かんだり、誰かの言葉を思い出すくらいで、父と母以外のことはほぼ空白に近い。

まるで別次元の世界に行っていた感すらある。

 

平穏な気持ちで普通に生活する、それがどんなに幸せな事か、最近になってようやく実感するようになった。

元の自分に戻るまで、まる5年かかったという事だ。

 

このブログの為の材料というか備忘録みたいな感じで、その時々に気になった事や思った事などをPCにメモしているのだが、今朝、ブログを書こうとそれに目を通していて、ある文章を見つけた。

介護のために東京から新潟に引っ越した時の気持ちを書いたものだ。

 

『その時の私は、父や母の事が心配で泣きたくなるほどだったし、自分の音楽をどうやってやり続けていったらいいかも分からなかった。

経済的な事や介護の事、新潟でのこれからの生活が殆どイメージできないまま、やらなければならない事は山のようにあって、毎日クタクタになって寝るだけの日々の中で先のことは全く考えられなかった。

ただ強く思っていたのは、東京で音楽をやり続けたいという事だった。

私は、東京で育ててもらった。

仲間や先輩、お客さんや尊敬するミュージシャンたちから暖かい励ましやアドバイス、思わず歯を食いしばるほどの叱責や厳しく欠点を指摘する言葉をもらい、褒めてもらったり上手くいかなくて恥ずかしい思いをし、でも何とかもっとちゃんと弾きたいと思ってたくさん練習した。

そういう記憶は過去のものではなくて、』

 

メモはここで終わっているのだが、これを書いた時の事は覚えていない。

でも、読んでちょっと切なくなった。

東京を離れなければならない、音楽を続けられるんだろうか、大好きな父を失うかもしれない、母との生活・介護はどうなるんだろう、、。

心がピリピリして、一人でぐるぐる空回りしている姿が見えた。

 

5年経った今、こうしてまた東京にいる事がちょっと奇跡のように思える。

そして、5年という時間をかけてゆっくり心が回復したのだと感じる。

 

朝起きて、朝食の前に、父と母の位牌に手を合わせる。

ほとんどの人は信じないだろうが、父はだいたい毎朝、母は気が向いたら時々(笑)、私に声をかけてくれる。

悩んでいる時にはアドバイスをしてくれる。

 

今日一日、元気で”ピアノを弾く、世界で何が起きているかニュースを見る、国会で野党がやっていることに怒る、仕事先で会ういろんな人たちとお喋りする、商店街のお店のおじさんやおばさん・若者と天気について語る、時々映画を見て泣く(怖がる) 、時々友だちと飲みに行って騒ぐ、芥川龍之介を読む、曲を作る、ブログを書く、、”。

 


何もない日常が有難いんだなぁ....。

いろんなことに感謝したい気持ちになった。

 

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2018年

3月

23日

人生100年

最近、いろいろな所で「人生100年時代」という言葉を聞く。

 

ネットで調べてみたら、”英国ロンドンビジネススクール教授のリンダ•グラットン氏が長寿時代の生き方を説いた著書『LIFE SHIFT』で提言した言葉”と解説されていた。

氏によると、2107年には主な先進国では半数以上が100歳よりも長生きする。

必然的に、個々人が70歳を超えて働く事を想定しなければいけないらしい。

日本政府も「人生100年時代構想会議」を2017年9月に開催し、有識者議員としてグラットン氏を招いて意見を聞いたそうだ。

 

2107年までには随分と時間があるから、今からそんなに焦らなくても....と思うのだが、私の周りでは人生設計が狂ったと慌てる人たちもいる。


そういえば、毎朝見ているネットのニュース記事で、「あなたの老後は大丈夫ですか?」「老後に必要な貯蓄について」みたいな特集が、最近やたらと目につくなぁ、と思っていた。

なるほど、長く生きればお金がもっと必要になるのだ。

 

もし寿命が100歳まで伸びるとして、それは幸せなことなんだろうか?

良い機会だから考えてみた。

 

まず大前提は、お金に困らなくて健康であること。

これについては、人間、生きていれば何が起こるか分からない。どんなに考えて気をつけていても、ひどい災難に遭うかもしれない。

それを心配しても疲れるだけだから、まずは大前提がクリアされるとして、100歳の自分を想像してみた。( お金と健康は、若いうちから頑張るしかないのだ★)

 

楽器を演奏する仕事に携わる人は、殆んどの人が、死ぬまで演奏したい、誰かに聞いてもらいたいと思っているんじゃないだろうか。

それほど音楽は魅力的で、魔法のように人を虜にする。

年をとってもまだピアノが弾けるなら、きっとものすごく幸せだろうなぁ、と思う。

Jazzは楽譜がいらないから、視力が落ちても指さえ動けば大丈夫だし、片手だけだっていいのだ。

 

友だちとお喋りしたり、ご飯を食べたりするのも好きだ。

願わくば、大好きな友人たちも長生きしてほしい。

同じ世代の友だちというのは得難い宝物だ。

でももし、一人ぼっちになったら、、。

 

ん〜、この”一人ぼっち”という言葉。

普通ならそこに”寂しさ”を感じるのだろうが、私は一人っ子だったせいか一人でいる事が基本形で、たぶんあまり不幸と感じないと思う。

SNSのおかげで、望めば世界中の人とコミュニケーションできる時代だし、”寂しさ”の不安はほぼない。

それに、Jazzはコミュニケーションの音楽だから演奏を通じて仲間は増えているはずだ。

 

音楽と友人とインターネット、あと読む本があればかなり幸せに生きていける。

でももしかして、本を読むことが困難になるかもしれない。

そうなったら、Webで古今東西・名作の朗読コンテンツを探す。

その頃にはきっと、膨大な名作アーカイブができているに違いない。

 

でもまぁ、こう考えてみると今と殆ど変わらないか、、(笑)。

じゃあ、長生きをして素晴らしく良い事ってなんだろう?

 

これは、すぐに思いついた。

火星だ!

 

小さい頃、『火星のプリンセス』(エドガー・ライス・バローズ)と『火星年代記』(レイ・ブラッドベリ)を夢中になって読んだ。

火星には高度な文明をもつ火星人がいた、という設定は、まるでSF的な荒唐無稽なものではなく、科学の分野でも、古代火星文明の可能性は否定されていない。

 


最近のNASAの研究によると、40億年前の火星は豊富な水をたたえた美しい惑星で、20〜30億年前まで水が存在していた。

人類が生まれるずっと以前の火星に、豊かな自然環境と発達したインフラが存在した、と考えるのは、それほど馬鹿げた話でも全くのSFでもないのだ。

 

『火星年代記』では、地球から火星に移り住んだ家族が新しい”火星人”になる。

遠い未来、私たちが新しい”火星人"になる、そんな壮大な場面を想像してドキドキ興奮したのを覚えている。

 

2016年9月、イーロン・マスク氏(テスラ、スペースX CEO)は、メキシコで開催された国際宇宙会議で、『Making Humans a Multiplanetary Species(人類を多惑星種にする)』と題した講演を行った。

人類を火星に移住させ、さらに他の惑星も目指すと語る彼の計画はかなり具体的だ。

2060年代までに100万人を火星に移住させるという目標について、多くの宇宙開発専門家たちがその実現性を真剣に検討している。

世界の多くの組織が、火星に人類を送り込むことを目指して力を合わせているのだそうだ。

 

私たちが生きている間に、火星に多くの人が移住するかもしれない、コロニーが建設されるかもしれない。

そう考えたら、絶対に長生きしようと思った。100歳まで!

 

人類が”火星人”になる時代を体験するために、お金と健康、頑張るぞ〜と決意を新たにした。


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2018年

3月

02日

平昌オリンピック

平昌オリンピックが閉幕した。

 

うちは相変わらずテレビがないので、もっぱらインターネットで配信されるニュースを見るだけだったが、日本の若い選手たちの活躍には本当に感激した。

競技結果への不安や周りからのプレッシャーは、オリンピックともなればきっととんでもなく大きいはずだ。   

でもニュース映像で見る選手たちからは、自分を信じる強さと、すべての努力の先にある結果を楽しもうとする余裕さえ感じた。

 

以前、このブログで、将棋の藤井聡太六段のことを書いた。

年若い勝負師の心の強さについて、ちょうど彼のプロ入りと同時期に見た、アメリカの天才チェスプレイヤー、ジョッシュ・ウェイツキンの伝記的映画の感想を交ぜて書いてみた。

 

”才能がある者に周りの者たちは無責任に期待し、期待が裏切られた時には無慈悲に失望する。スポーツや芸術の世界でも、一流の人たちはみんなその恐ろしさと戦っているのだ。”

(2017.7.20『ボビー・フィッシャーを探して』)

 

自分に勝つということは、実際の相手に勝つことより、ある意味難しいことなんじゃないか、とその時思った。心が強くなければ、生き残れない世界なのだ。

 

今回のオリンピックで一つ、気が付いた事がある。

日本の選手たちを支える環境だ。

競技への重苦しい不安やプレッシャーを乗り越えられるだけの力強い応援とサポート、そして国民からの暖かい愛情。

この試合には絶対に勝たなくてはいけない!なんて怖い顔で言う人は、ほぼ皆無だった。

選手たちが自分の全力を出し切る事が重要なのであって、結果はどうあれ、それを見守って声援を送るのが私たち国民のできる事だ!そんなふうに、ほとんどの日本人は思っていたんじゃないだろうか。

 

ネットに書き込まれた他国の人たちのコメントやニュースなどを見ると、日本との違いにちょっと驚く。

日本人のスポーツ精神は成熟しているなぁ....と思う。

 

オリンピック・アスリート達の写真は、全てがとても美しい。

特に冬季は、背景が純白の雪と氷なので格別だ。

 

今回の写真の中で私が一番好きな写真は、スピードスケート女子団体追い抜きで、世界一の強豪オランダを破って日本女子が金メダルをとった時の授賞式だ。

両隣りの大きな外国人選手たちと比べて、日本の選手があまりに小さく可愛いらしくてびっくりした。

大人と子供と言っていい程の体格差、体力差がありながら、彼女たちは知恵と気力とチームワークで勝ったのだ!

 

マジで感動して涙が出た、、。

                              (産経ニュースより)

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2018年

2月

20日

受難は続く-完結編

新潟市にある我が実家の度重なる受難--ガス漏れ・ハクビシン・大雪。

 

ブログで詳しく書いたのだが、先日、FBの方にも「こんな大変な事があったよ〜!」と軽い気持ちでアップした。

すると、地方に実家を持つ友人たちから切実なコメントがたくさん届いた。

親元を離れて暮らす人は、地元の大雪や台風などの災害、いずれ無人になるかもしれない家の管理など、年を重ねるごとに心配が膨らむ。

私のFBを見て、人ごとじゃないなぁ....と書き込んでくれたのだ。

返信を書きながら、”こうした空き家問題は、既に社会現象かも”と思った。

 

さて、今月は、11日/建国記念の日に新潟のお寺で親戚の法事があって、前日のうちに新潟に帰ることにした。

新潟にいるなら一緒にライブやろうよ!と、東京で活躍するドラムの友人が、偶々その日は新潟にいるというので誘ってくれて、昼間は法事、夜はライブというスケジュールになった。

他の日もいろいろ予定を入れてあって、なかなか充実した一週間の休暇になるはずだった、、。

 

10日。午後には新潟に着いて、たいした苦労もなく玄関にたどり着いた。

先月に頑張って雪除けをしたおかげだね ^-^ 一ヶ月前の私ってば、えらい!

....しばし自画自賛....。

 

それでも、その後の寒波や降雪で、玄関付近は依然として雪だらけだ。

60〜70センチ以上雪が積もった前庭に、横手の台所裏・ガスの元栓へと続く細々とした小道があった。

先月の大奮闘を思い出して、じ〜んと胸が熱くなった(笑)。

 

感慨に浸りながら、玄関の鍵を開け引き戸を引いた。

カーテンを閉め切った薄暗い玄関ホール。上り口のふかふかマットとスリッパ。

ん〜?なんかいつもと違う、、。

目をこらすと、ふかふかマットがびしょびしょマットになっている。

さらに、ホール一面がなんと水浸しだ!水深2センチくらいだろうか。

 

左手奥の方から、ジャージャーと何か良からぬ音がしている。

長靴に履き替え、水をちゃぷちゃぷ踏み越えながら左手の洗面所に入って、驚いた。

シンク脇の湯沸かし器から出ている水道管が破裂して、勢い良く盛大に水が噴き出していた。ついでに、お風呂場の蛇口からも水がピューピュー噴き出ている。

水は洗面所から廊下へ、そしてホールへと滔々と流れ出ていた。

 

こういう場合、まず水を止めるんだな。

ぱくぱくしながら考えた。

絶望的な事に、私はうちの水道の元栓がどこにあるか知らない。

ひぇ〜、どうすりゃいいんだ〜?

 


とりあえず、水道修理屋さんのカードを探し出して電話をかけた。

繋がるのを待ちながら湯沸かし器周辺を見渡すと、それらしい蛇口を見つけて急いで閉めた。

湯沸かし器の水は止まった。でも、お風呂場の水は止まらない。

 

水道修理屋さんの電話の女性は、とにかくゆったりと話す人で、パニクっている相手を落ち着かせる目的があるのか、電車を追いかける自転車のようにこちらとは致命的な速度差があり、更に酷(むご)い事に「ただいま予約はいっぱいで、今からだと3日後になります。他の修理業者のご案内はこちらではいたしません。」と冷たくおっしゃるのだ。

 

どうしよう〜?

 

その時、ピンと思い出したのは、ハクビシンの時にお世話になった、シャーロック・ホームズみたいな近所の便利屋さんだ。

すがるような気持ちで電話した。

「今すぐには無理ですが、5時過ぎには行けます。」

天の助け!まじでそう思った。

 

便利屋さんが来るまでの間、水道の元栓を探そうとスコップであちこち雪を掘ってみたが、あまりに大変で諦めた。

替わりに、雑巾とバケツをもって家の中の水をせっせと退治しにかかったが、水の量もハンパない上に絨毯もたぷたぷ、しまってあったタオルも何もかもぐっしょりで、『このシリーズ*最大最悪の過酷な試練』となるのは間違いなかった。

 

5時。待ちわびた便利屋さんが来て、洗面所の破裂した水道管を修理してくれた。

でも、お風呂場の水はまだ元気よく噴き出している。

どうも蛇口の問題らしい。

すぐに便利屋さん事務所から2人、加勢に来てくれて、総勢3人で前庭から家の周り一帯の雪を掘り起こして水道の元栓を探した。

あたりは既に暗くなっていて、ライトで照らしながら寒波到来の寒い中を1時間以上、ようやく隣家境のブロック塀付近で見つかった。

( 寒い中を本当にありがとうございました!m(_ _)m )

元栓を閉めたので、お風呂場はなんとか静かになったが、とりあえずは水を使うたびに元栓の開閉をしなければならない。

 

後日、お風呂場の蛇口を交換に来てくれた便利屋さんは、他の危なっかしい箇所も発見してくれた。そこは次回まで様子見だ。

ホールの床の修繕も頼むことにした。

 

誠実で親切で着実に仕事をしてくれて、シャーロック・ホームズみたいに頼りになる便利屋さん。

まだ若いのに立派だなぁ、、。たぶん20代?

彼は沖縄出身なのだそうだ。

新潟県人が想定外と言うほどの今回の大雪と寒波。沖縄の人が初体験するには、『最大最悪の過酷な試練』だったに違いない。

そして、我が家がこんなにも立て続けに災難に見舞われたのも、私にとっては想定外の試練だった。

 

翌日、新潟市古町”JazzFLASH”でのライブの前に、マスターご夫妻とメンバーに一連の出来事を話した。

「もう、ほっんとうに大変だったぁ〜。」 

 

マスターは穏やかに微笑みながら、こう言ってくれた。

「そんなに大変だったんなら、これから良い事がたくさんありますよ。」

わ〜ん(泣)、マスター、ありがとうございます〜(涙)!

 

これからきっと起こるはずの良い事。まずは、早く春になって満開の桜を見る事かなぁ、、。

もう雪はよっぱらですて。(新潟弁で「もう雪はたくさんです。」)

 

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2018年

2月

06日

受難の年明け -Part2-

先月11〜12日に新潟市を襲った驚異的な大雪。

 

市郊外にある実家が心配で、東京でニュースを見ているのがどうにももどかしかった。

翌日午後、さっそく新潟駅に到着すると雪は既にやんでいた。

 

越後線(ローカル線)に乗ろうかちょっと迷ったが、バスで寺尾に向かうことにした。

全ての車はノロノロ運転で、一体いつ帰り着くのか分からなかったが、線路の途中で列車が止まるよりはずっとましだ。

路肩は除けられた雪がうず高く積まれて土手のようになっており、道路上も雪でザクザクしている。

乗客の乗り降りは、歩道からバス乗降口までひと山-除雪された雪の山-を越えなければならず、普段の倍くらい時間がかかった。

 

ようやく自宅近くのバス停で降りて、雪に足を取られそうになりながらよろよろ歩いて家に着いた。

家の前の道路は除雪車が通ったらしく、車一台は徐行できるくらいになっていた。近所の家々は雪かきを既に終えて、特に車庫の前の雪はきれいに除けられている。

新潟で車は文字通り”足”であるから、車が出せないとなると仕事まで休まなくてはならない人もいるそうだ。

 

私の家は、道路から5段くらい石段を登ってちょっとのところに玄関がある。

その石段前に、まるで”通行止め”と言うように雪の小山ができていた。

除雪車が退けた雪が私の肩のあたりまで積み上がっているのだ。

石段から玄関までは綺麗なスロープ状の雪原(笑)になっていて、美しかったがとても我が家とは思えなかった。

1メートルくらい積もったんだろうか。

 

さて、どうやって玄関にたどり着こうかと考えた。

両手に荷物。スコップ無し。我ながら甘かったなぁ、、ここまでとは想像していなかった。ご近所さんは留守みたいだし、、。

どう考えても、体当たりで進むしかないわけで、雪をかき分け足を踏ん張り体で道をつくるという過酷な雪中行軍になった。

 

ようやく玄関に着いた時には、息はハァハァ全身雪まみれで、普段こういう時にはどこか笑っちゃう自分がいるのだが、この時ばかりは悲壮感満載だ。

何故なら、これから更に過酷な作業が待ち受けている。

 

玄関に置いてあったスコップを持って、それから一時間半、一心不乱に雪かきをした。右手の親指の皮が、スコップのせいで擦り剥けたのにも気がつかなかった。

「もう、あとは明日!」と思って長靴を脱いだ瞬間、もの凄く大変な事を思い出した。

 

先月、帰省した時のガス漏れ-ハクビシン騒動。(1月11日記事)

あの時、作業してくれたガス会社の人が「ガスの元栓は、東京に帰られる時に閉めた方が良いですね。」と言ったので、今、家中のガスは出ない。そして、ガスの元栓は台所の裏、雪かきをした前庭からずっと離れた所にあるのだ、、。

 

もうね、、。身体は既に『今日の作業は終了!』モードになっているのに、否応なくまた現場に駆り立てられるという、、。

余計な事は考えず、ただもくもくと台所裏のガスの元栓を目指して雪を掘り進んだ。

 

結局まる3時間、気力・根性で頑張った....o_o

中庭のほうは、庭木が既に折れていてもう諦めるしかない、本当にこんな雪は生まれて初めてだと思った。

 

FBに今回の事を書いたら、ハクビシン騒動も知っている友人が、”天は田崎さんを見放してしまわれたのか、、”とコメントを書いてくれて思わず笑ってしまった。

ほんと”なんでだよ〜”と、思った。

 

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2018年

1月

22日

受難の年明け -Part1-

昨年12月の我が家の災難については前の記事に書いたのだが、今年1月、それを上回る大危機が築40数年の我が古家を襲った。

 

以下、順を追って詳しく書くと、、う〜、もしかしてまた長文になってしまう予感が、、(笑) 。

 

1月11日夜から12日未明にかけて15時間もの間、大雪で立ち往生した列車内に乗客が閉じ込められた件。

菅官房長官が記者会見で言及するほどに全国的に有名になったが、その列車は、新潟駅でたびたび見慣れた新潟発/長岡行き-信越線のあの普通電車。
東京の自宅で、のんびりコーヒーを飲みながらネットニュースをチェックしていたら、かなり大きく報じられていた。
「ありゃ〜。」と思って記事を読んでみると、JRの対策にいろいろ疑問がわいてきた。
と同時に、数年前に経験した新潟駅行きローカル線-越後線での出来事が記憶に蘇った。

冬の寒いある日、新潟駅から新幹線に乗ろうと思って、大きな荷物を持ち、家から8分ほどせっせと歩いて越後線/寺尾駅に着いた。

荷物が重かったのと相当着ぶくれていたのとで、ちょっと息が荒くなりながら、でも余裕で間に合ったな、と安心してちらっと駅の電光掲示板を見てびっくりした。


「強風のため運休」とかなんとか書いてある。このくらいの風で運行停止って、、。

今はもう、”すぐ停まる越後線”という新潟の一般常識は学んだから、駅に行く前にネットで情報確認は欠かさないが、その時は初めてだったのでかなりパニクった。

「えぇ〜?!マジ? そんなぁ、、。 」

 

気を取り直して、小さな待合室にいた駅員さんに「強風で運休って、結構あるんですか?」と聞いたら、彼は何故か笑いながら言ったのだ。

「新潟じゃしょっちゅうらね〜。」

 

やりとりはこれで終了。

詳しい情報を教えてくれるでもなく、ご迷惑をお掛けしますでもない。知らない貴方が残念でした、という態度に呆気にとられた。

ショックを受けて怒りもわかず、そうだ、知らない私が悪いのだと反省しながら、また数分せっせと歩いて新潟駅行きのバスに乗った。

 

そして今回の信越線。

15時間も閉じ込められた乗客の人たちや孤軍奮闘した車掌さん。本当に大変なことだった。

15時間って半端じゃない。

我慢強さは、新潟県人の美徳でもある。

菅官房長官は、「多くの乗客を輸送する鉄道事業者にとって、利用者保護の視点は極めて重要だ。、、乗客にとって最善の対応だったのか。」と疑問を呈し、対応を問題視したそうだ。

 

私は越後線でのことを思い出しながら、どこか似ているなぁ、と思った。企業の精神というかなんというか、、。

そう思ったら矢も盾もたまらず、新潟の友人にメールした。

「これってどうなの?」

まぁ、友人に文句を言ってもしょうがないのだが、彼女からはいたって冷静な返事が来た。

 

”それだけ、今回の雪は想定外だったのでしょう。”

 

11日から降り出した雪は、24時間で80㎝という記録的なスピード降雪になった。

雪に慣れた新潟人をして『想定外』と言わせる程のものだったのだ。

 

彼女の、”お家、埋まってるかも....”という言葉で、にわかに新潟の古家のことが心配になってきた。

”埋まってる”ならまだしも、つぶれてるかも!と思ったら、夜も眠れなくなりそうだった。

 

***Part2に続く***

 

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2018年

1月

11日

天井裏に何かが!

昨年の話になりますが。

 

冬の寒さが本格的になってきた12月始めのある日、私はマフラーをぐるぐるに巻きぷくぷく着ぶくれて、雪降る新潟に帰省した。

夕方には実家に着いて、雪が薄く積もった5段ほどの石段を上って寒さに震えながら玄関の鍵を開けた。

 

家の中はひっそり静かで、まる一ヶ月間、締め切ったままで溜まった空気の匂いがする。

「ただいまぁ。」と小さな声で言いながら、急いで部屋に入ってガスファンヒーターを付けた。

 


「あれ?付かない、、。故障かなぁ?」

「ま、お茶でも飲んで、、。」と思ったら、台所のコンロも付かない。

 

外に出てガスの元栓を確認したら、案の定ピッピッと点滅していたので、手順通り復旧しようとしたが何回やっても正常モードにならない。

仕方がないので、ガス会社に電話した。

 

夜6時を過ぎていたと思うが、北陸ガスの職員の方が2人--主任さんらしい人と部下の20代くらいの人--が駆け付けて来て、それから2時間かけて家中のガス器具を点検し、危険な箇所を修理してくれた。

微量だが、古い器具からガス漏れしていたようだ。

( 寒い中、本当にありがとうございましたm(_ _)m )

 

和室で作業をする間、そばで所在なく見ていたら、何やら天井裏でパタパタ走る音がする。

「わ、ネズミ?!」

驚いて天井を見上げながら、参ったなぁ....と思った。ガスの次はネズミ....。

2人の職員の方たちも「お、なんかいますね。」と顔を上げた。

天井のそれは、元気にあちこち走りまわっている。

「ネズミにしてはけっこう重量感ありますねぇ、、?」

若い方の人がぽつんと言った言葉がどっと不安を煽った。

 

得体の知れない何かが天井裏にいる!わ〜っ‼︎

 

翌日には天井の足音はまったく止んでいたから、夜のうちに外に出てしまったようだ。

家の外を見て回ったら、一箇所、屋根の下/庇の上の板がめくれている所があった。ここから出入りしてたんだな。

 

早速、近所の便利屋さんに電話して来てもらった。

事情を話したら付近を調べてくれて、雪の上に残る小さな足跡を見つけた。

彼は、シャーロック・ホームズみたいにその足跡をじっくり調べたあと、真面目な顔つきでこう言った。

「これは猫じゃないですねぇ。ハクビシンです。」

まったく予想外の生き物の名前で、びっくりというよりぼっとした。

「ハ、ハクビシンって、日本に、じゃなくて新潟にいるんですか?」

「そうですね。他でも聞きます。」

 

便利屋さんが、めくれた箇所を綺麗にふさいでくれてひと安心した。

古い家だからこの先また何が起こるか分からない。普段、住んでいないのだから尚更だ。

でも、シャーロック・ホームズみたいな便利屋さんがすぐ近所にいてくれるのがわかって、めっちゃ心強い気持ちになった。

 

しかし、ハクビシン、、。

インターネットで調べてみた。

 

”食肉目ジャコウネコ科ハクビシン(白鼻芯)属に分類される食肉類。

その名の通り、額から鼻にかけて白い線があることが特徴である。

日本に生息する唯一のジャコウネコ科の哺乳類で、外来種と考えられている。”(wikipediaより)

 


ふ〜む。外来種ということは、もともと日本にいなかったのに誰かが持ち込んだってことだよね。

分布図を見たら、中国大陸南部、マレージアやインドネシアなどの東南アジア、インド、ネパールなどの南アジア、台湾といった、比較的暖かい地域に生息する動物みたいだから、こんな寒い新潟で生きていくのはさぞ辛かろう、、。

 

今、日本全国でいろいろ問題になっている”外来種”。

在来種に危害を与えたり生態系を壊す可能性があって、危険な存在と見られている。

でも、駆除される方からしたら理不尽すぎて「え〜、なんで〜?」って思うだろうなぁ。好きでここにいるんじゃないよって、、。

日本に連れてこられるまでに、いったいどんな災難が彼らに降りかかったのか?

 

写真を眺めながら、ハクビシンたちの過酷な運命をあれこれと想像してしまった。

 

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2018年

1月

01日

日本の未来

新年あけましておめでとうございます。

2018年も良い年でありますように 🎌 と元旦の朝、亡父と母の位牌に手を合わせてお願いした。

 

父も母も、きっと日本の未来に何かできるような事は無いんだろうが、「そこをどうか一つよろしく。」と言いたくなるくらいに、日本の未来が大変な事になるような気がした。

 


心配し過ぎかなぁ、、?

年末/お正月、テレビで大型時代劇とか東西寄席を見ないで、インターネットの国際情勢-解説番組を見ちゃうせいかなぁ。

 

まぁ、北朝鮮も中国も韓国もアメリカもロシアも、私なぞが心配しても何一つ変わらない。

でも、「ふ〜ん、そうなんだぁ。」じゃなくて、今、何が起きているのかを知る、どれが事実なのか知ろうとするって、最低限、私にも出来ることで必要な事なんじゃないだろうか。

 

日本が良い方向に向かいますように。

ついでに私にも、パァ〜っと幸運が降ってきますように(笑)。

 

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