商店街を歩くうちに、これから鷗外のお墓にお参りするのだと思って、胸がキュンと締め付けられる気がした。
ワクワクとかドキドキとかそんな軽々しいものではなく、もっと厳粛な、ライブ本番前の緊張感にも似た気持ち。
それと、ほんのちょっとの後悔--やっぱ今日じゃなくて、もっと万全の日にするんだった、、とめそめそする気持ち。
二つの気持ちが心の中でせめぎ合って、その摩擦熱でエネルギーが生じたのか、私はかなりなハイスピードでずんずん歩いた。
頭の中でまた別のことを考えないように、わき目も振らずに歩いた。
そのうちに、禅林寺をずいぶん通り越したところで、あれっ?と気付いた。
こういうのは、自宅付近で散歩をしていて時々ある。
考え事をしながら歩いていて、気付かずに自分の家を過ぎてしまう。
気持ち良く歩いていて、足にストップがかからなくなるのだ。
携帯で地図を調べ直して引き返した。
夏の名残りのような陽の光をいっぱいに浴びて歩き通したので、全身汗だらけになりながら禅林寺の境内に入った。
隣りの八幡大神社では盛大な例大祭が行われていて、屋台も出て沢山の人で賑やかだ。
お寺と神社がこんなふうに併存するのは奇妙な気がしたが、後で建立の歴史を知ってみれば、日本独特な宗教観が自然にすんなり分かる。
すぐ隣りだというのに、寺の墓地には神社の祭りの音は全く聞こえて来ない。ひっそりと静まりかえっている。
私は、鷗外のお墓を探してちょっと歩いた。
すると、入り口近くですぐに見つけてあっと思った。
思いの外、墓碑が大きくてそれも驚いたのだが、お墓の前にお供えしてある花が半分しおれていて、あっと思ったのだ。
なぜお墓参りをするのに、私は花を買って来なかったんだろう、、。
( 中央の大きなお墓が、鷗外のお墓です。)
お盆でも命日でもないのに、綺麗な花やお供え物があるはずがないのだが、それでもちょっと寂しい気がして、私は自分の馬鹿さ加減と気の利かなさが心(しん)から残念だった。
今日はリハーサルだからとか訳の分からない言い訳をごにょごにょつぶやいて、それからやおら気を取り直し、墓碑に向かって手を合わせてお辞儀をした。
訪ねて行った家の塀の外でお辞儀をしているような妙な気分である。
気持ちが出来ていない。
尊敬や同感や疑問や愛惜が、整理されないまま、ずっと長い間に大きな漠とした塊になっていて、手を合わせても言葉が出てこない。挨拶もろくに出来ないのだ。
やっぱり、お墓参りはまだ早かった、、。
20代であろう若い女性二人が、すぐ斜め向かいにある太宰のお墓の前で写真を撮っていた。
少し離れて高校生らしい男の子が一人、彼女たちが立ち去るのを待っている様子である。
「若い人たちは太宰が好きなのね。( 私も最近、好きだけど....。) でも、鷗外の良さを知らずにいるなんて文学好きとしてどうなのかしら? ( 鷗外の墓の写真を撮っている )私を、胡散くさそうに見るのはやめなさい!太宰が鷗外を尊敬していたって太宰ファンなら知っているでしょう?」
たちまち私は、オロオロとつまらない事を考え出した。
多勢に無勢の負け惜しみだ。
鷗外は穏やかに苦笑し、太宰は情け深く「そんな事考えなくて大丈夫ですよ。」と声を掛けてくれるような気がふとした。
二人の芸術家が眠るこの場所には、世俗を超えた優しい高貴な空気が流れていた。
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