美術展

新潟で美術展を見た。

『風景画の世界展』

たまたま招待券を頂いて、美術館が駅の近くだったので東京に帰るついでに立ち寄った。

新潟の資産家である敦井榮吉氏の私蔵コレクションの中から風景画を選って展示していて、横山大観や東山魁夷など、日本画にはまったく疎い私でも知っている有名な画家の作品もあった。

敦井氏は近代から現代にかけての日本画・陶芸の収集家で、そのコレクションは1300点に及ぶ。( 新潟にこんな粋人がいたのだなぁ。)

 

静かな空間でゆっくり絵を見る時間が好きだ。

展示された絵には、画家の息遣いや絵筆を持った時の手の力、時にはそれを描いた時の心ー何を感じ何を思っていたのかーが表れていて、まるでタイムマシンで時を遡って、その場に立ち会っているかのような気持ちになる。

 

美術館には、一種独特の張り詰めた空気が流れている。

作品がそれぞれの空気を醸し出している。

 

美術展というと思い出すことがある。

もう何年も前に、渋谷の東急Bunkamuraに「N.Y.グッゲンハイム美術館」を見に行った。

カンディンスキーの絵を見たくて行ったのだが、他にもピカソやシャガールやマティス....、展示された作品の素晴らしさに圧倒された。

 

ゆっくりと順番に見ていって、ゴッホの、彼にしては淡い色彩の小さな絵の前に立った時、何故だろう、涙がふっとあふれた。

 

『雪のある風景』ー溶け始めた雪が所々に残る冬のアルル(南フランス)が描かれている。

私は絵からちょっと離れて立っていたのだが、その絵の前に、一心不乱に絵筆を動かすゴッホの後ろ姿が見えた気がした。

冷たい冬の午後、ひと気のない平原で冷えた手を温めながらキャンバスに向かう彼の姿を、絵と同じ空間の中に感じた。( ポケモンGoみたいなイメージ。)

 


何故涙がでたのか。その時は分からなかったし、深く考えることもなかった。

(彼の気の毒な境遇-世の中になかなか認められない事-を可哀想に思ったんだろうか?)

そんな同情とは決して違う、もっと不思議な感情だったのを覚えている。

 

今、この記事を書きながら、あの時のことを思い返してみた。

私が見たと思ったゴッホの後ろ姿。

私はそこに、彼の必死さを感じたんじゃないだろうか。

自分の芸術に対するひたむきな熱情、それよりもっともっと強い彼の”必死さ”をきっと感じたのだ。それに胸を突かれたのだと思う。

もちろん、ただの思い過ごしかもしれない。

でも、そう考えたら何だかとても納得した。

 

それにしても謎は残る。

何故この絵だったんだろう? 他にもっと有名な大作があるのに....。

穏やかな小さな絵。

芸術家と作品の間には、凡人には計り知れない”神秘なもの”が在るんだろうか、、。

 

もしかしたらあの時の涙は、その神秘に触れた貴重な一瞬だったのかもしれない。

この世には不思議な事がいっぱいあるのだ! (....と私は信じたい・笑。)