私の住んでいるマンションの隣りはちょっと広い空き地で、今度新築マンションが建つ。
最近は土地測量や建設業者の人たちが度々来ていて、そろそろ基礎工事が始まるようだ。
今朝、柏手(かしわで)と祝詞の音でびっくりしてベランダに出たら、工事関係者が集まって「地鎮祭」というのであろうか、神事を行っていた。
何を言っているのか分からないが所々日本語である事は分かる不思議な祝詞と、祓串(はらえぐし)をばさばさ振る音を聞きながら、いやぁ神道はのどかでいいなぁなんて思った。
つい一ヶ月前だが、従兄弟の娘さんが都内で結婚式を挙げた。
純白のウエディングドレスの彼女は美しく、幸せにきらきら輝いていた。
新郎新婦はキリスト教の神父さんに祝福を与えられ、十字架の前で誓約し、集まった私たちはオルガンの伴奏で賛美歌を歌った。
そして六ヶ月前、私は父と母の一周忌でお坊様のお経を厳かに聞いていた。
真言宗のお経はサンスクリット語が混ざるので、聞きながらこれまた何を言っているのかさっぱり分からない。
でも歌のように音楽的で、本当に美しいお経だ。
ろうそくとお線香の煙りにむせながらお墓にお花を供えて、親戚の方々と一緒に父と母の冥福を祈った。
土地の氏神様に「工事の無事を見守って下さい。」と頼み、西洋の神様に「若い二人をどうぞお導き下さい。」と頼み、インドの仏様に「父と母がそちらに行きますんでどうかご加護を。」とご挨拶する。
その時々でいろいろなお願いとご挨拶を神様仏様にする訳で、宗教的に随分とご都合主義な面は否めない。日本人は無宗教だとも言われる。
私も少し前までそう思っていた。
最近、両親の葬式を出し、位牌に手を合わせるようになって考えた事がある。
日本人は、ご都合主義な無宗教なのではなく、人知を超えた偉大な存在全てを神と見なして生きてきたのではないか?
キリストやモハメッドや釈迦や天照大神、山や森や大いなる自然、それら全てが優劣区別無く畏れ敬う対象=神であるというのは、唯一神の宗教観を持つ人々にはなかなか理解できない事だ。
でも、だいたいの日本人は普通にそう思っているんじゃないだろうか。
そして「死ねばみんな仏になる」のだ。神様や仏様と同じように、ご先祖様たちに手を合わせるのだ。
そういう気持ちは、日々生活しているとめったに表に出てこない。自分では神なぞ信じていない、無宗教だと思っている。
でも、身近な人が亡くなったり、圧倒的な大自然を前にしたり、心がくじけそうになった時や何か不思議な体験をした時に、人知を超えた存在をすっとなんの迷いもなく認めて向き合う。
愛する人や大事な物の行く末を案じた時に、「どうかひとつ!」と頭(こうべ)を垂れる。
普段、無視していた神さまたちをいきなり思い出すのだ。
神さまたちもそういうツンデレには慣れているとみえて、先週ハロウィンで騒いでたよね?、なんてことは一言も言わずに、地鎮祭では、「はいはい、工事安全・無事祈願ね!」と頷きながらお供えのお神酒を嬉しそうに眺めている。
日本人の宗教観は寛大で、日本人を護ってくれている神さまもきっとめちゃくちゃ寛大なのだと思う。
日本人にとって神とは、畏れ敬うと同時に、多少の甘えは許してくれると期待してしまう親の様な存在なのかもしれない。
人知を超えた存在に親のように甘えてしまうという精神構造は、すごく面白いなぁと思う。
言い換えれば、日本人にとって神さまはそれほど身近であった。宗教という権威を必要と感じないくらいに、、。
地鎮祭で集まった人たちをベランダから遠く眺めながらそんな事を思って、何故か平和で安らかな気持ちになった。
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